『Garden』
第一章:魔女の岬に住む少女


―8―

「ガーデン・・ハート国・・・。」
リリスはゆっくりと咀嚼するような速度で、その言葉を口にした。
信じられないというよりも、何を言われたのかまだ理解できていないという顔で、見開かれた瞳は、アデルの次の言葉を待って動かない。

「俺は、国の使命を帯びてこの町までやってきた。
その使命は、今言った通り、ここに住んでいるという魔女の存在を確かめ、その力をこの目で見極める事。そして、その人物が我が国にとって、必要な人材であるのなら、共にガーデンハート国へ来てもらうよう交渉すること。」
「で、でも今、アデルさんが探していた魔女は、祖母のことだと・・・」
「初めに耳にした噂は、君ではなく、君のお祖母さんのことで間違いないだろう。だが、彼女はすでに亡くなっていた。そして、元の主がいなくなってしまった魔女の家に・・・この場所にいたのは君だった。だから、君がその噂の魔女なのではないかと思い、君のことをずっと観察していた。君の能力がどういったものなのか、それを見極めようとしていたんだ。・・・・俺の方こそ、君を騙すような真似をして、すまない。」
アデルは、静かに頭を下げる。ただ本当に申し訳ないという気持ちからの行動だった。
「君は、俺が初めに探していた魔女ではなかったかもしれない。だが、先程の力を見て、君のその能力は、我が国に必要なものだと感じた。だから、もしも君が嫌でなければ、俺と共に来てほしい。」
「・・・・。」

しばらくの沈黙の後、リリスの右手がそっとアデルの左腕に触れた。
ハッとして顔を上げたアデルの前には、眉根を下げ、戸惑いを隠せないでいるリリスの顔がある。
「・・・顔を上げてください。その・・・私にはそんな、・・国のために役に立つような力は、ありません。」
困惑しているようでもあり、どこか寂しそうでもある。リリスは、なんとも形容し難い複雑な表情をしていた。リリス自身も、なんと言葉を返そうか迷いながらしゃべっているのが窺がえる。
“そんなことはない。”アデルは反射的にそう返そうとしたが、直前で思いとどまった。彼女の能力の事を、先程初めて目にしたばかりの自分が彼女以上に分かっているはずなどなく、それを自分が語るというのは、いかにもおかしな話だと思えた。
そして、己の使命を打ち明け、彼女に同行を願い出ておきながら、どこか頭の片隅で、彼女のこの生活を、平和な暮らしを壊してはいけないとも考えていた。
たった1週間。そんな短い期間だったが、アデルはリリスが暮らすこの町を、この場所に暮らす人々を、生活を、その空気を、いつの間にか好きになっている自分がいることにも気が付いていた。
自分に、それらを壊すような権利はない。

「・・・薔薇の、話をしたことを、覚えているか?」
「!」
「その花を国花とする国、ローズ国・・・あの国の国王は、強欲で、元来争いを好む。それは、その地位の者が何代代替わりしようと変わることはなかった。
今から25年前、世界中で醜い小競り合いが続いていた時代は終焉を迎え、ガーデンハートが世界の中央に位置し、議会を開く場を設けた。今では、よほどのことがない限り、大規模な戦争は起こらない。しかし、あの国だけは例外だ。辛うじて議会へは出席しているものの、他国と足並みをそろえる気は全くないと言っていい。そして未だに、隣国への侵略行為を続けている。」
リリスは、祖母の作ったこの庭に、唯一咲くことのない花の姿を頭の中に思い描く。それがこの庭に咲いた時、世界は真に平和となるのだと、そう語っていた花。
「あの国は、他国の技術を奪うが自国の技術を絶対に外には出さない。様々な手段を講じてきたが、有事の際にも、完全に自給自足できるシステムを構築している上、様々な点で一国の中に力を持ちすぎていて、下手に手を出すことも出来ない。
そして、君のお祖母さんが言っていた通り、ローズ国と・・・あの国とどう向き合うかが、この世界が平和を手にするための大きな課題だ。」
つい昨日、裏庭のベンチで海を見つめながら語っていた時と同じ顔だと、リリスは思った。その瞳に宿る力強い光は、彼の使命に対する、固い決意の表れだ。
涼しげなダークグレーの瞳に、ゆらりと灯る熱を感じて、リリスはそれをじっと見つめる。

「今、ガーデンハートは、世界各国から様々な知識人、技術者、科学者などに協力を仰ぎ、ローズ国に対応出来るような国力を手に入れようとしている。これはあくまでも、他の全ての国との協力体制を整え、ローズ国に立ち向かうための手段であり、その下地作りだ。ガーデンハートが中立連絡国家であることは、変わらない。」
そこまで話して、アデルはふっと息を吐いた。そして、視線を下げると、ゆっくりと立ち上がる。もう一度目が合うと、先程まで決意と熱意に燃えていた瞳は、すでに平静の色を取り戻していた。穏やかな凪を思わせる双眼に、リリスは自分の胸がトクリと小さく跳ねるのを感じた。それはまるで、自分の胸の奥に燻る、まだ火種とも言えないような微かな想いまで見通しているように思えたからだ。

「・・・君は、どう思っているのか分からないが・・・・少なくとも俺は、君のその力が、世界を平和へと導く大きな力になると思っている。」

そう告げると、アデルは入ってきた木戸の方へ踵を返した。
「っつ//アデルさん・ッ・・!」
リリスが慌ててその背を追おうと立ち上がりかけると、それを制するように、アデルは扉の前で一度足を止めた。

「俺は、明日の朝1番に出る乗合馬車に乗って、この町を発つ。」
「!」
「もしも、俺と一緒に来てくれる気持ちがあるのなら、ここから森を抜けた先にある公道まで来てくれ。馬車がそこを通るはずだ。・・・無理強いをするつもりはない。来たくなければ、来なくていい。」
突き放すような言い方になってしまったかもしれないと、アデルは己の言葉の足りなさに、舌打ちしたい気分になった。背を向けているため、リリスの表情は窺い知れない。
「急ですまない。その、・・・本当は今日、ここには、君に別れの挨拶をしに来るつもりだった。それがまさか、こんな形になるとは思っていなかった。後味の悪い挨拶になってしまい、併せてすまないと思っている。・・・・明日、君が現れなかったとしても、君の力の事は、決して口外するつもりはない。・・・これだけ隠し事の多い人間を信じろというのも可笑しな話だろうが・・でも、信じてほしい。この町の人々が守り続けてきた秘密は、秘密のまま。国には“魔女はいなかった”と、そう報告するつもりだ。」
木戸に手を掛けたところで、逡巡する。アデルは、静かに後ろを振り返った。

「君の入れてくれたアッサムティー・・・とても美味しかった。ありがとう。」

微笑もうとしたはずなのに、普段あまり使わない筋肉に無理をさせたためか、引きつったピエロのような笑顔になる。
押し開けた木戸は軽く、慣れない引きつり笑いの様な音を響かせながら開くと、パタンッと、まるで外気と内気を明確に分かつかのように、それは大きな音を立てて閉まった。






『おばあちゃん!おばあちゃん!』
鈴の音のような声に呼ばれ、白い部分が多くなった髪を一纏めにした後ろ頭が振り返る。
コロコロした飴玉みたいな瞳を輝かせて、紅茶色の髪の幼い少女が本のページの端を小さな両手でぎゅっと掴んで立っていた。
『おばあちゃん!見てください!このお花、とってもきれいなの!』
そのページを広げて見せようと、老女の太もも程の高さしかない少女は、懸命に身体をピンと縦に伸ばしている。広げられたページを目にした老女は、瞬間、驚いた顔をして、それからはははっと快活な声を上げて笑った。
『それはね、“薔薇”という花だよ。』
『ばら?』
『そう。この国からは遠く離れた、ローズ国の国花だ。』
少女の頭を撫でる手は、長年の庭仕事で染み込んだ、お日様をたっぷりと浴びた土の匂いがする。すっぽりと頭を覆う手袋みたいな大きな手。小さな少女には、その感触がとても力強く感じられた。
『わたし、こんなきれいなお花、はじめて見ました。お庭のどこにも見たことがなかったから。ねぇ、このお花は、いつ咲くの?』
純粋な眼差しを受け止めて、老女はゆったりと膝を折る。少女と同じ高さに目を合わせると、さらりと指の間を抜けていく髪の感触を楽しむように、少女の前髪をすくった。
『・・・その花はね、この庭には咲いたことがないんだ。』
『おばあちゃんでも、咲かせたことのないお花があるの?』
少女の目は、まんまるに広がる。
『そうさ。あたしにだって、出来ないことがある。この世界を平和にするなんて、それこそ夢のような芸当はね。』
『?』
少女は、祖母の口から突然飛び出した“へいわ”という言葉に、小首を傾げた。
今はお花の話をしていたはずなのに、何故祖母は突然、“せかい”と“へいわ”について話し出したのだろうかと。
不思議そうな顔をする彼女に、老女は口元に悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべて、本に描かれた挿絵の薔薇に、トンッと一つ指をついた。
『あたしはね、たった一度だけ、この目で本物のこの花を見たことがある。』
『ほんと!?』
『あぁ、本当さ。それはそれは、綺麗な花だった。』
少女の瞳に、憧れの光がキラキラと溢れた。“せかい”や“へいわ”のことなんて関係ない。ただ純粋に、その美しいモノを自分も見てみたいという希望が、流れ星のように少女の身体中から溢れ出している。
『わたしも!見てみたいですっ!』
老女はその眩しい輝きににっこりと目を細めながら、さらりさらりと少女のまあるい頭を撫でた。

『あたしも、この目で見てみたいねぇ。この庭に、薔薇の花が咲くところを・・・。』



「・・・・おばあちゃん・・。」
リリスは、細い指先で挿絵の花の輪郭をそっとなぞる。
初めて彼女がこの本の中で薔薇の花を目にした時から、もう10年近くが経っていた。今のリリスには、祖母の言っていた“世界”や“平和”の意味も、もうすっかり理解できる。
祖母が作ろうとした魔法のような庭の、最後の夢。そして・・・・
(私の夢・・・・・)

“いつかこの庭に薔薇の花が咲いた時には・・・その時には、世界は平和になるんだ”

祖母の言葉を思い出し、リリスはやつれた革表紙の本を、そっと胸の前に抱き寄せた。






「色々と、お世話になりました。」
まだ日の昇りきらない時間帯だというにもかかわらず、宿屋の女将と息子は、わざわざ店先までアデルを見送りに出てきてくれていた。
「いいんだよぉ!そんなにかしこまらなくったって。あたしたちも、あんたと話ができて、楽しませて貰ったんだから。なにはともあれ、気をつけてお帰りなさいな。」
「また、近くに来た時には、寄ってくれ。」
二人と固く握手を交わすと、アデルはそれほど多くはない荷物を肩に、一人、乗合馬車に乗り込んだ。年老いた御者は、アデルが座席に座ったのを確認し、パシリとひと振り、手綱をなびかせ、馬車を発車させる。
パカシャッパカシャッと、独特のひづめの音を響かせながら、アデルを乗せた乗合馬車は、朝霧で霞む町の中央道を走り出した。見送りの二人は、アデルが見えなくなるギリギリまで手を振ってくれていたが、それも霧の向こうに霞んで消えていく。

(・・・・来ては、くれないだろうな・・。)

岬の方角を眺めながら、アデルは公道を走る馬車のリズムに身を任せる。始めの内は問題ないが、長時間座り続けていると、かなり尻と腰に響くことを、この町へやってきたときに嫌というほど学んでいたが、今はこの一定のリズムが、どこか心地よく感じられた。

昨日、リリスとなんとも苦い別れ方をしてしまってから、後味の悪い気持ちばかりが残るかと思われたが、今朝起きた時から、不思議とアデルの心は落ち着いていた。
今となっては、あのような別れ方になってしまったことが、逆に、彼女のことを思えば良かったのではないかとさえ、思っている。
来てもらえるものならば、それはもちろん嬉しいことだが、しかしそれは同時に、今の彼女の平和な生活を壊してしまうことになる。そして、彼女や、町の人たちが守ろうとしてきたその力を、外の世界に出してしまう。
(それは、果たして正しいことなのだろうか・・・・)
今の彼には、その判断がつかなかった。
世界の平和のために。そう言ってしまえば、それはきっと正しいことなのだろう。しかし、それはあくまで、行動を起こす本人が決めること。アデルは、そして、ガーデンハートは、決して、誰かを傷つけるような平和を望んでいるわけではない。

気がつくと、すっかり親しみを覚えてしまった町の風景は、徐々に後ろへと流れていった。まだ、どの店先も開店の準備には早い時刻で、聞こえるのはそこを走る馬車の音だけ。
その乗合馬車にも、アデル以外に乗る者はなく、馬車は一定の速度で霧の中を進む。
いつの間にか町並みも閑散とし、町から少し外れた左手にうっすらと教会の十字架が見えた。ここから先は、建物のない森の中の道となる。

パカシャッパカシャッパカシャッ

傾斜のついた道も、その馬力でスピードを落とすことのないまま、両側の景色は完全に森林に変わっていった。
アデルは、じっと一つの方向を見つめているが、すでに、左手の森の向こう側になってしまった魔女の岬は見えない。

パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ

両側に森を配す公道の左手前方に、薄く、道とは思えないほど心許無い道が、森から公道へと伸びているのが見えてきた。
それは、アデルが初めてこの町に・・・魔女の岬に来た時に降り立った、森を突き抜け岬へと続く、獣道のようなか細い道だ。
そこに、リリスの姿は、ない。

パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ

淡く霧が立ち込める中とはいえ、見間違うような距離ではない。いくら目を凝らそうとも、やはり、近づいてくるその道の上に立っている者はいなかった。
「・・・・。」
アデルは、胸元から懐中時計を取り出す。時刻を確認すると、まだ5時を回って間もない。

パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ

「あの、すみません!」
揺れる馬車の上を、アデルは少しフラつきながら進み、前の御者へと近づいた。
「すみません!」
「!ああ?」
耳が遠かったのか、やっとのことで声に気がついた老人は、すぐ後ろに立っているアデルを見上げるようにして振り返る。
長い眉毛で覆われてしまった目の表情は伺えない。
「なんだね?」
「次の町までは、まだ時間に余裕がありますか?」
「はぁ。まぁ、こんな朝早くに乗ってくような人は、この辺に住んどる人間には、あんまりおらんでな。あんたみたいな、他所のとこから来た人くらいのもんだで。そうそう、急がんけんど。」
「急がないようでしたら、そこの横道の前で、一度馬車を止めてもらってもいいですか?
3分だけでいいんです。3分経ったら、もう行ってもらって構いませんから。」
「はぁ。それは、まぁ、ええですけど。」

パカシャッパカシャッ・・・・

御者は訝りながらも、小さな横道の前で、馬車を止めてくれた。
アデルは、馬車から地面へ降り立ち、道の先を見つめながら待つ。
3分。それで何が変わるとも思ってはいなかった。でも、せめて最後に一言、昨日のようなものではない。別れの挨拶だけでも、彼女は言いに来るのではないか。今朝までは、あんな別れ方で良かったなどと思っておきながら、心の底ではそんな淡い期待を持たないわけではない。
(・・は、・・・俺も案外、優柔不断だな。)

手にした時計の規則的な音が、静かな霧の森の中で、やけに大きく聴こえていた。
ブルルッと馬の嘶きの声に、御者が「どうどう」とその横腹を撫でる。
「あんた、誰か待っとりんさるんか。」
「・・・・。」
カチコチカチコチと、時計の針は時を刻んで進んでいく。見つめる先の森は、微動だにせず、いつまで見つめていても、何も、変わることはなかった。

カチコチカチコチカチコチカチコチッ・カチッ・・・――――――

アデルは小さく息を吐き、一度じっと目を閉じると、懐中時計を胸元に仕舞う。
「・・・・行きましょう。」
「もう、ええんかい?」
「えぇ。無理を聞いてくださって、ありがとうございました。」
「誰か、待っとったんじゃ・・・。」
「いえ、・・俺の勘違いだったみたいです。」
そう答えるアデルに、「はぁ、そんだったなら、ええけど・・・。」と御者もそれ以上は口を挟まなかった。
森に背を向け、再び、乗合馬車のステップへ足を掛けた。




「待ってくださーーーい!!」



「!!」
「おぉ?」
突如、森の奥から聞こえてきた声に、御者の毛深い眉が上がる。
アデルも思わず、ステップに乗り上げかけた足を止めて、地面の上へ身体を戻していた。慌てて振り返れば、鬱蒼とした森の奥から、何やら物凄い勢いで駆けてくる音がする。というか、人一人が駆けてくるだけで体感的に物凄いと形容されてしまうような音が出ているというのは、おかしい。
これは、どう考えても嫌な予感しかしない。
生い茂っている草木の所為で、奥が見えない森の中から、パッと、言葉で言うならば本当に“急に”少女が一人姿を現した。
「!リリス!」
「あ、アデルさん!」
リリスは、アデルの姿を見留めると、一瞬で笑顔になり、そのままの勢いで駆け寄ってくる。いや、そのままの勢いじゃ駄目だろうということに気がついたときには、もう止めるための声を掛けるタイミングを見事に逸してしまっていた。
「あ、のっ、すみません!足が止まりませっ・・・わはぷっ!!」
「待て!だから、もっとスピードをっ・・・うがっ!!」
ドンッと、分かりやすい音を立てて、アデルはその場に尻餅を付いた。それはもちろん、リリスが真っ直ぐ、アデルに向かって突っ込んで来たからで。その彼女の身体を全身で受け止め、ついでに、勢いでゴチンッと後ろ頭を、先程足を掛けようとしていたステップに強かに打ち付けた。
それこそ何度目かの既視感を覚える。

「はばあっ!あ、アデルさん大丈夫ですか!??;;」
「いっつ//・・・君は、いつも先を考えずに突っ込んでくるな・・・・。」
「す、すみません;;あの、お怪我は、今、頭を打ったんじゃ・・・」
あわあわとアデルの身の心配をするリリスに、アデルはふっと小さく息を吹き出した。
「そんなに慌てなくても大丈夫だ。俺は、君が思っているよりもずっと頑丈な方だし、それに・・・誰かのおかげで、ここへ来てから、こういったことにはもう慣れた。」
「あ、え、あの、す、すみません・・・///」
赤くなって下を向いてしまったリリスに、アデルは気の抜ける感覚を味わう。これも、もう何度目のことなのか。最早、数えるのも馬鹿馬鹿しい。

「・・・その、そろそろどいてもらえると助かるんだが。」
「え、あ!はい!今、どきます!///」
慌てて、リリスはアデルの上から立ち上がった。それに続いて立ち上がると、アデルは漸く落ち着いてリリスの姿を見ることが出来た。そこで初めて、彼女の服装が、自分の見慣れたそれとは異なっていることに気がつく。
いつも着ていたシンプルなワンピースではなく、動きやすさを重視した短いパンツに折り返しのないスタンドカラーのシャツと、その二つを繋ぐように胸まで覆うオーバーコルセット、そして、編上げの長いブーツを履いたスタイル。
背中には、大きなリュックを背負っていた。
いつもよりも衝撃が大きく感じたのは、そのリュックの重量分か。などと、冷静に考えていたが、問題はそこではないと、改めてリリスの顔を見る。

「リリス、君は・・・・」
「私、アデルさんと一緒に行きます。」
「!」

リリスは、いつもの澄んだ瞳に決然とした意思を宿して、アデルのことをしっかりと見据えた。
「今まで私は、ただ漠然と・・・祖母の抱いていた夢を、いつか私が叶えられたらいいと、そう思っていました。でもそれは、あそこで、あの場所で、ただじっとしているだけでは、叶わない夢なんだということに気がついたんです。
アデルさんも言っていたように、ネリネ国は・・・ラントの町は、とても平和です。もちろん、エミリーちゃんのような戦争孤児もいますが、それでも、きっと他の国と比べると、それほど大きな争い事もない、静かな場所なんです。だから私は、これまで、この世界の平和のことや、外の、他の国の戦争のことなんて、それほど深く考えたことがありませんでした・・・。」
視線は一度、静かに地面へ向けられた。そこに何があるということではなく、何と言えば自分の考えたことが相手に伝わるだろうか。リリスは、ゆっくり呼吸を整えながら考える。
「・・・私、アデルさんと出会って初めて、ちゃんと外の世界のことを、考えてみたんです。この世界には、ネリネ以外にも、沢山の文化が違う国があって、祖母の作ったあのお庭のような、色とりどりのお花の名前を持った国があって、そこではきっと、私の知らない様々なことが起きている。お花が、それぞれ個性を持っているように、きっと色んな個性を持った国が、この世界にはあるんですよね・・・・私は、それをもっと知りたい。この目で見てみたい。・・・そう、思いました。」
リリスは、そこまでを自分でも噛みしめるように言葉にすると、再び顔を上げ、アデルのことを一心に見つめた。己を奮い立たせるようにして、両手をぎゅっと力強く握りしめる。
「・・・・・私の力が、どれほどこの世界のためになるのかは、分かりません・・・。
でも、誰かが世界の平和のために、この力が役に立つと言ってくれるのなら、私は、それを信じてみようと思いました。祖母の夢を叶えるために、少しでも自分に出来ることがあるのなら、私はそれをしたい・・・。」
リリスの瞳の中に、幻想的な色彩が滲む。晴れてきた霧の隙間を縫って降りた、太陽の光の反射か。はたまた、彼女自身の持つ不思議な力によるものか。
それは、淡く深く、碧や金の砂粒を散らし波打つ紅茶色の海の様に、キラキラと瞬いた。



「アデルさん、私を、ガーデンハート国へ連れて行ってください。」



・・・・武者震いと、いうのだろうか。今確かに、自分の身体の中を、一種の電流のようなものが走った感覚があった。
アデルは自分のことを、本当に優柔不断な天邪鬼だと思う。
(あんなに、彼女のためにならないと、そう納得していたはずなのに・・・・。)
そのはずだったのに。
彼女の言葉を聞いて、ただ単純に嬉しいと、そう確かに思っている自分がいる。
この煌らかな瞳を持つ少女を世界へ連れ出すということが、一体どういう意味を持つのか。
(それは、まだ分からない・・・でも・・・・)
でも、これはきっと、この世界が踏み出す、意味のある大きな一歩に違いない。
自然とこみ上げてきた笑顔を、素直に表情に反映して、アデルは静かに右手を差し出した。

「よろしく頼む。」
「!は、はい!こちらこそ、よろしくお願いします。」

強く握り締めたその手は、ほっそりと小さく、ごく平凡な少女のそれだった。
でも、それはどこか、優しい力を感じさせる不思議な温かさを持っていた。


第一章:魔女の岬に住む少女・END