『Garden』
第二章:青と白の国


―1―

「アデルさん!」
リリスは弾む声で呼びかけると、噴水の縁に腰掛けているアデルの眼前に立った。ステップを踏むような足取りだったためか、足の止め方が多少慌ただしい調子になってしまっていたが、彼女にそんなことを気にしている様子はない。
アデルが顔を上げると、大分口元の締りが悪くなった少女の顔に出会った。
その頬は興奮のため、僅かに上気して赤く色付いている。瞳は紅茶の水面のようにキラキラと瞬いて、全身から溢れ出す嬉しさを隠すことなく周りに放っていた。
彼女の手に握られた二つ折りの小さな紙片に目を留めて、アデルはホッと息をつく。
「無事、発行されたのか。」
「はい!これで私も、お隣りの国に入れます!」
リリスは嬉しさを滲ませた声で、その二つ折の紙片をパッと開いて、アデルの前にかざしたのだった。
そこには、“Lillith・Brown”という文字と生年月日などの情報に加え、この国ネリネの国印が押されていた。
「わぁ!これが身分証なんですね!」
リリスは、長方形の紙片を両手の指の先で挟んで、じっと見つめる。
ラントの町を出てから、すでに2日が経過していた。
半日をかけてネリネの首都ネリアへ到着し、そこから検問を通って、国境を接する隣国ハイドランジアへ入り、一国を通過する形でその先のガーデンハートへ向かおうとしたところで、リリスが身分証を持っていないことが判明したのだ。
国によって厳密さは異なれど、どの国でも子供が生まれればそれを町の役所に届け、国は自国民を管理する。そこへ更に身分証という制度が確立されたのは、ガーデンハートが建国された後からだ。それこそ、国間の貿易が盛んになり、人も物も頻繁に行き来をするようになってから、国境を超える際には、その者がどの国の者なのかを示すための重要な証明書となっている。
ガーデンハート建国以前には考えられなかったことだが、旅行という娯楽目的での国の移動も、ある程度許されている昨今、大抵の人は皆、この身分証の発行を早々に行っているものなのだが、リリスは、今まで自分の母国から出ることなど考えたこともなかったため、その制度すら、あまり認識がなかったようだった。
(彼女の出自を聞いた身としては、ブラウンさんがちゃんと彼女の届け出を国に出してくれていただけ、よかった・・・。)
彼女が拾われた子供だという話を知っていたアデルとしては、よもや、国民登録すらされていなかったらどうしようかと肝を冷やしたものだが、役所へ行って調べてもらうと、案外すんなり登録が見つかったので、胸を撫で下ろした。
ただ、それでも初回の身分証発行には、過去その者がこの国に暮らしていたことを証明するために、役所の様々な部署へ足を運ばねばならず、手続きが煩雑になってしまうため、今日の今まで発行に時間がかかってしまったのだ。

「先ほど、発行の知らせが来て君が役所へ向かっている間に、宿の荷物は引き上げてきた。このまま、検問を通ろう。」
「はい!」
リリスは弾んだ声のまま、アデルから自分の荷物を受け取った。
隣国ハイドランジアは、ネリネの南東部に国境線を構える国だ。
接している国境線は長いが、実際に出入りのできる検問が設けられているのは、首都ネリアと接している南側の端の極一部のみとなる。
アデルたちと同様に、ネリネからハイドランジアへ入る人の列が、検問に向けて伸びていた。
「この検問を抜けたら、すぐにお隣りの国なんですよね?」
「いや、この先は無国籍地帯になっている。」
「無国籍地帯?」
「国によって造りも異なるが、大抵の場合は、国と国の検問の間に無国籍地帯が設けられていて、そこで更に入国審査をされる。国内に実際に入れるのは、その審査を通ってからだ。」
「審査には、どのくらいかかるんですか?」
「これも国によってまちまちだが・・・ハイドランジアの場合、約1ヶ月。」
「1ヶ月も!?」
驚くリリスに、アデルはこほんっと小さく咳払いをして続ける。
「通常の場合はだ。今回は、先にハイドランジア側からガーデンハートの者に迎えに来るように頼んである。入国する国内側に身分を保証できる者がいる場合、入国審査は簡単な手続きだけで済ませることができるんだ。」
「はぁ・・・そうなんですね。」
リリスが感心したように言うので、何も特別な話はしていないのに、アデルはなんだかむず痒い気持ちになった。ラントでは、彼女に振り回されてばかりだったが、一歩町の外の世界に出てしまうと、リリスはなんでも初めてだと言って、喜んで色々なことを聞いてきた。彼女が、いかにあの町から出たことがなかったのかということを痛感させられる。
アデルはふと、マルグリットがあの町のことを“箱庭”と呼んでいたことを思い出した。
(彼女の力のこともあるし、自然と町の外へ出すようなことは避けてきたんだろうな・・・。)
それは決して、彼女を傷つけるためではなく、あくまでも守るためだったのだろう。それでも、ある程度分別のつく年齢になれば、周りの大人たちが自分のことを町に縛り付けている事実に気がついたはずだ。
(それに気がついたとき、一体、彼女はどう思ったのだろう・・・・。)
「・・・アデルさん?」
いつの間にか、じっと見つめてしまっていたらしい。アデルの視線に気がついたリリスが、不思議そうな顔で振り返ったことで、アデルはハッとして物思いから覚めた。
「あ、いや、なんでもない。・・・・そういえば、君の誕生日はブラウンさんが君を見つけた日になっているのか?」
見つめていたことを誤魔化すように、何気なく話を振るが、振ってしまってから、彼女と彼女が祖母と慕うブラウン氏に血の繋がりがないことをリリス本人は知っているのだろうかと、急に不安になり、話の選択肢を間違えたことに気がつく。「いや、今のはなんでも・・・!」と思わず訂正しかけたところで、リリスはなんでもない顔で、自分の身分証をアデルに差し出した。
困惑した表情で身分証を受け取るアデルに、「心配しなくても、私と祖母の間に血縁関係がないことは、知っていますよ。」とリリスは微笑みながら返す。
「マルグリットさんが、アデルさんにお話されたと言うのも聞きました。」
「・・・そうか。」
それが、彼女の意図したところではないにしろ、彼女には、いつも慌てさせられている気がするアデルである。
「正確な誕生日は分からないので、登録は祖母が見つけてくれた日になっています。でも、見つけた時点でまだ生まれたばかりだったみたいなので、生まれ年は恐らく間違っていないのではないかと。」
アデルはもう一度「そうか。」と返しながら、渡された身分証を何気なく見聞して、次の瞬間、思わず物凄い勢いでリリスの顔を見返した。ブンッ!と思いっきり風を切る音が聞こえたくらいだ。
「リリス・・・き、君は今・・・・14歳なのか・・・?」
「はい。14ですけど・・・?」
それがどうかしたのかといった表情のリリスに、アデルは戸惑ったまま「・・・そうか・・。」と辛うじて声を絞り出した。少女だとは思っていたが、まさかまだ、士官学校に通っている学生のような年齢だとは思っていなかった。
自身で生計を立てているようでもあったし、どこか学校に通っているような素振りもなかった。

(いや、よく考えたら、女性がこの年齢で勉学に励むことのできる国は、まだ限られる。あったとして、家柄や入学金の問題もあるし、一概に、この年齢の全ての女性が学生であるとは考えられない。いや、でも、ネリネ国は確か女王が治めている国ではなかったか・・・?)

ぐるぐるとここまで一気に様々なことが頭の中を巡っては、流れていったが、その答えはどこにあるでもなく、ただアデルは、自分が今から本当に年端もいかない少女を、国外に連れ出そうとしているという責任の重大さに、改めて気を引き締めねばと感じていた。

アデルが深刻な顔をしているのを尻目に、リリスは興味深そうに「そういえば、アデルさんの身分証はどんなものなんですか?」と聞いてきた。
「え?あ、あぁ、これだが・・・。」
「!わあ!本の形になっているんですね!」
アデルが差し出した身分証を手に、リリスは目を輝かせる。それは、革で出来た赤い表紙の小さな冊子型をしており、ページを捲ると、初めのページにアデルの個人情報が書かれ、それから後のページには、様々な国の印が日付と共に押印されていた。
リリスに発行された紙1枚の身分証とは、雲泥の差だ。
「ガーデンハート国の発行する身分証は、国の成り立ちの特性上、厳密な審査の下発行される。そのため、他国からの信頼が高い。この身分証を持つ者は、基本的に隣接した国に入るのに、煩雑な手続きはいらないんだが、ハイドランジアに関しては内政の問題もあり、現在、検閲が厳しい状況にある。ガーデンハート側からハイドランジアに入るのには苦労しなくても、一度出国して他国へ入ってしまってから戻るのでは、俺でも内側からの迎えが必要になるんだ。」
アデルがそう説明する間に、リリスはアデルの身分証をじっと見つめていて、ゆっくりと顔を上げると、またアデルのことをじっと見返した。
「・・・アデルさんだって、そんなに年齢変わらないじゃないですか。」
「!俺は、もう成人している。それに君とは、6歳も違う。」
「でも、私もラントでは、もう大人として扱われていました。」
リリスは、預かった身分証をアデルに返すと、「だから・・・」と言って、一瞬言い淀んでから、「そんな風に子供扱いされると、寂しいです・・・。」と困ったように眉根を下げた顔で言った。

思わずため息が出る。
そんな顔をされても、困った顔をしたいのは、こっちの方だと言いたいのを飲み込んで、アデルはリリスの頭にポンッと手を置いた。驚いた顔で、リリスが見上げるとそこには幼い妹にでも向けるような優しい眼差しをしたアデルがいた。
「・・・そういうところが、子供だって言うんだ。」
「な・・!」
「俺も、君をここから連れ出す以上、保護者として必ず君を守る。だから、信じてついて来てほしい。」
「!!」
そんな風に言われて、リリスは何も反論ができなくなってしまった。自分の年齢が分かった途端、急に子供扱いしようとするアデルに、どこか初めて会った時のような距離を感じて寂しかったはずのなのに、今は、アデルの大人の部分を垣間見たような気がして、リリスは少しドギマギしてしまう。


「次の方、身分証をこちらへ。」
「!は、はい!」

言い返す言葉を思いつかないまま、気がついたら、検問の順番が回ってきていた。
離れていってしまう頭の上の重みを少し惜しみながら、リリスは、少し高い位置に設置された木台の上へ手を伸ばして、自身の身分証を検閲官へと手渡すと、検閲官がそれを確認するのをじっと見つめて待つ。別になんの不備もあるはずがないのに、妙にドキドキしてしまうのは、検閲官の眉間に浮かんだ年季の入った皺のせいなのか、もしかすると、この高圧的に感じる高低差をつけた木台のせいかもしれない。
検問の両側には、制服を着た衛兵が立ち、検閲を終え、開かれた門扉を通り抜ける人々を監視している。
たった数秒のことのはずなのに、それがまるで、とても凝縮された時間のように感じた。

「はい。どうぞ、先へ進んでください。よい旅を。」
「は、はい!ありがとうございます!」
緊張した面持ちで検閲官から身分証を受け取り、リリスは門へと進んだ。後ろを振り返ると、アデルが視線で先に入っているように合図したので、軽く頷いて歩を進める。
門番の横を通る瞬間、妙な緊張で身体に力が入った。リリスは担いだ自らのリュックの肩掛けを握り締める手にぎゅっと力を入れて、門の内側へと足を踏み入れた。


「わあ・・っ!」

門から一歩中に入ると、そこには小さな町が広がっていた。
門から真っ直ぐに伸びる太い道なりに、建物が並んでいる。それらは全て同じようにこげ茶色をした四角い無機質な形をしており、ネリネの国でよく見る木の梁や柱と白い土壁を合わせ、外壁を模様の様に組んだ上に、赤茶色のレンガで出来た屋根瓦が乗った家とは全く異なる様相をしていた。
無国籍地帯とはいえ、場所的には、ここは既にネリネの国境線を超えた、ハイドランジアの内側になる。リリスは急に、自分が他国へ足を踏み入れたのだということを実感した。

「ネリネとは、全く違うだろう。」

気がつくと、驚きで固まっていたリリスの隣りには、審査を終えて検問を通ってきたアデルが立っていた。リリスは、コクコクと頷きを返す。
「私、家というものは全て、三角の屋根が付いているものだと思っていました。こういう形のおうちもあるんですね!」
興奮気味に話すリリスの瞳は、また輝きを増している。アデルはどうやら彼女の機嫌が治ったようでよかったと思ったが、それを口に出すことはしなかった。
「ここはまだ無国籍地帯だが、管理自体はハイドランジア側が行っている場所だ。だから、内部の構造も向こうの文化が反映されている。先ほど、入国審査には1ヶ月かかるといったが、その審査待ちのための宿屋なども整備されていて、簡単に言えば、壁で囲われた小さな町といったところだ。」
「壁に囲われた小さな町・・・・確かに、言われなければ壁もよく分かりません。」
二人が立っている太い道の先は、途中で緩く左に折れていて、その先までは見渡せなかったが、なかなか奥まで続いているように見えた。左右も、かなり余裕を持った造りにされているのか、壁の姿は見えない。ともすると、ここがまだ入国前の待合い場所であることを忘れてしまいそうだ。
「毎日多くの人が出入りをするから、内部はかなり広大だ。はぐれない様にだけ、気をつけてくれ。」
またしても、子供扱いされたようで、リリスは何か言いかけたのだが、アデルはそんな彼女の視線に気づかない振りをして話を続けた。
「まずは、ハイドランジア側からここへ迎えに来ているはずの使者と合流する必要がある。検閲官のいる窓口で聞いてみよう。」
アデルが歩き始めたので、リリスもその後を追う。小さな町の中は、当然ながらこれから他国へ入ろうとする旅行者の空気を纏った者たちで溢れており、不思議な雰囲気を帯びていた。


「確かに、あんたの分の証明申請は出ているが、もう一人の分は出ていないな。」
「あとから、一緒に来ることが決まったんだ。証明者に会って、直接事情を話したい。証明者の居場所は分かりますか?」
「証明者がどこにいるかまでは、こちらでは管理していない。呼び出しは掛けてみるが、最悪、すでに国内に戻ってしまっている場合もある。」
「分かりました。よろしく頼みます。」

「どうでしたか?」
窓口での会話を終えたアデルが出てくると、リリスが不安そうな顔で近づいてきた。その表情を見て、おそらくは自分がそういう顔をしているせいだろうと、アデルは思わず自分の眉間を指で撫でる。
「ガーデンハートからの使者は、俺たちよりも先に着いていたようで、俺の分の証明申請はすでに提出されていた。俺だけなら、すぐにでも国内に入国することが可能だが、君の分の証明も行わなければならない。必ずここで落ち合うことにしているから、この中にいないということはないだろう。一度、来ているはずの証明者と合流するつもりだ。が、すぐに見つかるか分からない状況だ。今、呼び出しを掛けてもらっているが、呼び出しと言っても、この内部にいる検閲官たちが個別に宿などに声を掛けるようなものだから、直ぐに連絡がつくとは限らない。・・・意外と、時間が掛かるかもしれないな。」
「そうですか・・・。すみません。私のせいでお手数を・・」
「気にしないでくれ。そもそも、君を連れて行くことを事前に連絡しておかなかった俺の不手際だ。念のため、宿の空き状況も確認してくる。」
そう言って、もう一度、窓口に戻ろうとするアデルの背を「あの、アデルさん!」とリリスの声が引き止める。何事かと振り返ると、そこには星を落とさんばかりにキラキラと瞳を輝かせている少女の姿があった。
「お、お話されている間、そこにある本屋さんに入っていてもよいでしょうか・・・!」
「くっ//・・・どうぞ。」
アデルは笑いを堪えながら、そう答えるのが精一杯だった。


リリスは恐る恐る、店内に足を踏み入れた。
内装は、簡素な外装ほどのインパクトはなく、どこの本屋でも同じように、木で出来た本棚が整然と並んでいる。嗅ぎ慣れた紙とインクの臭いに、リリスは途端に顔がほころぶのを抑えられなかった。
棚の手前にある平積みのコーナーを覗き込むようにして目を走らせる。どの本も、自分のいた町では見かけたことのないものばかりだ。気になるものを一冊一冊手に取っては、パラパラと中身を捲って、表紙から紙の感触までを楽しむようにして見ていった。
自分の知らない本が、これほど沢山あるという事実に胸が高鳴る。手に取った本一つ一つが、全てハイドランジアという国の文化を反映したものなのだということを改めて感じる。
(そうだ。絵本のコーナーも・・・もしかしたら、国に伝わる独自の物語もあるかもしれない。)
リリスは、本棚の間を縫って奥の絵本コーナーへ向う。大きなリュックが邪魔にならないように気をつけながら進むが、何分大きな荷物のため、どうしても狭い店内を動き回るのには適していない。過ぎようとした通路の途中で、本を物色する他の客の背にぶつかってしまい、咄嗟に「あ、すみません。」と声をかけながら、そちらへ視線をやった。

(!)

リリスは、目を疑う。
(今、この人・・・。)
すれ違った人物が、店の出口に向かったのを見て、気がついたら、思わずその腕を掴んでいた。
「あのっ!」
「!?な、なんだよ。」
腕を掴まれた人物はぎょっとした顔で、振り向く。若い青年だ。服装はいかにも旅人の様相で、布製の鞄を肩から斜めに下げ、頭にはキャスケット帽を目深に被っている。
「あの、もしも私の見間違いならすみません。今、そこに積まれていた本を鞄の中に入れましたよね。」
「!?」
「それ、お会計はまだなんじゃないでしょうか。レジはお店の奥にあります。このままお店を出てしまったら、貴方は・・・・」
「っつ!!離せっ!!!」
「いっ!//」
青年は掴まれていた腕を大きく振り払って、リリスの拘束から逃れると、一目散に店の外へ走り出した。リリスは慌てて店の外まで飛び出して「待ってください!!」と声を掛けるが、それで待ってくれる訳もなく、このままでは見失ってしまう。
騒ぎに気がついた店の主人が、「どうかしましたか?」と店の奥から出てきた。
「今、あの人が、本を盗んで行ってしまいました。警察の方に通報をお願いします!」
「えっ、あんたちょっと・・・っ!!」
青年の背を追って、リリスはその場を駆け出した。

青年は、太い通りから左に入る小道へと折れた。
この町は、あくまでも入国審査待ちのための施設でありながら、ご丁寧にもちゃんとした一つの町の形で形成されており、厄介なことに、メインの通りから左右にもいくつも小道が伸びていた。
「待ってください・・・っ!!」
「くそっ!しつこいな!!」
相手はどうやらこの町に慣れているようで、いくつもの複雑な道を折れ曲がりながら、リリスを振り切ろうと駆けるが、リリスも、振り切られまいと必死で後を追う。
(動きやすい服装にしておいて、よかった・・・っ!)
このためにそうした訳ではなかったが、いつものワンピース姿では、すぐに振り切られてしまっていただろう。リリスは、パンツスタイルに足にフィットする長いブーツを履いてきていたことに感謝した。

幾度目かの小道を折れ曲がっていった先に、行き止まりに辿りついた。おそらくは、逃げ急いだ青年が折れるべき道を誤ったのだろう。
そこに立ちはだかったのは、この区域と国内を明確に隔てている堅牢な壁だった。ここは、壁で囲われた区域であるという時点で、逃げ切るには不利な場所だ。道の左手には建物、右手は、ギリギリ跳んで渡るには距離のある川が流れている。
壁に行く手を阻まれた青年は、「くっそ!!」とその壁を強く拳で殴りつけると、背後のリリスを振り返った。リリスは肩で息をしながら、どうにか追いつけたことに安堵していた。
「っはぁ、っはぁ、・・・・っあの、どういう理由があるのか、私には分かりませんが、・・・盗みは犯罪です。まだ、今なら一緒に戻って所定の金額を支払えば、許してもらえます。だからっ・・・」
「ふざっけんな!!そこをどけぇ・・っ!!!」
青年はリリスの言葉に聞く耳を持つ様子はなく、追い詰められたことで、更に頭に血が昇っているようだった。青年の胸元から、きらりと銀色の光が飛び出す。それが、刃の輝きだと気がついた時には、青年はリリスに向かって一直線に走り込んできていた。
「!!」
咄嗟に、人間の反射的な反応として手が前に出ていた。
前に出した手の指の隙間から見えた青年の姿に、リリスは恐怖を覚える。銀色に輝く刃が閃き、それを握り締めた青年の腕が大きく振りかぶられ、それが自身へ向かって振り下ろされるところまで、頭の中でイメージが像を結んだ瞬間、リリスは、自分でも不思議なほど自然に、一歩後ろに下げた右足に力を入れ、衝撃に備えるように硬く地面を踏みしめていた。次の瞬間、青年の刃がくるであろう軌跡を避けるようにして、己の手を青年に向けて伸ばすという動作を彼女が頭の中で半ば無意識に思い描いた時、視界の右側から、突如、リリスと青年の間を割るようにして、別の銀色の光が差し込まれる。

キィィインッ・・・!!

金属のぶつかり合う激しい、悲鳴にも似た音が鼓膜を震わせると共に、リリスの目の前に長い茶色のローブを羽織った後ろ姿が現れる。マントの裾が翻るが如く、風になびくそのローブに、リリスは一瞬、時が止まったような錯覚を覚えた。



アデルが、窓口で宿屋の当てをつけて、外に出ると、通りは俄かに浮き足立った雰囲気になっていた。
(何かあったのか・・・?)
あまり目立つ行動はとりたくないと思いながら、道の反対側にある本屋へと向かう。
本屋の前にも人だかりができており、店の主人が何やらこの区域の警備の者と話をしているようだった。瞬間、嫌な予感が襲い、足早に近づくと、店主と思しき男に声を掛ける。
「すみません。ここに、リュックを背負った赤茶色の髪の女の子は来ませんでしたか?」
「!あんた、あの子のお連れさんか!それが、今しがた、盗人をその子が見つけてくれたんだが、逃げられてね。その子も、そいつを追って行ってしまったんだよ。」
「なっ!?」
予想もしなかった事態に、アデルは思わず2秒ほどフリーズしてしまってから、慌てて聞き返した。
「彼女は、どっちへ?」
「この道をまっすぐ行って、3つ目の角を左に入っていったところまでは見たんだが、その後は・・・」
「分かりました。ありがとうございます。」
そう簡単に返して、アデルはすぐにリリスが盗人を追って行ったという道を駆けていった。

(全く、はぐれるなと言った傍からこれか・・・っ!!!)

子供扱いしてほしくないと言った彼女を思い出しながら、やはりまだまだ子供だと心の中で返して、とにかく無事でいてくれと、祈るような気持ちで、地面を蹴った。


To be continued....