『Garden』
第一章:魔女の岬に住む少女


―7―

『当てが外れた。任務を終える。
 明日には、こちらを発つつもりだ。迎えを頼む。  ―アデル・ガーランド―』

手紙に封をすると、アデルは小さく息をついた。
ここへ来てから、もうすぐ1週間が経とうとしていた。任務のために訪れたこの町で、意図せず休暇のような過ごし方をすることになってしまったが、任務の成果がないながら、骨休めになったという点では、そう無意味なものでもなかったのかもしれない。

「明日にはここを出ていくなんて、随分急な話だねぇ。ま、またいつでも遊びに来なさいな。そう観るところもない町だけど、のんびり老後を過ごすには最適の場所だよ。」
宿屋の女主人は、そう言って快活そうに笑うと、親切に郵便局の場所を教えてくれる。
朝食の席では、宿屋の一人息子が、歳の近い話し相手がいなくなるのが寂しいと、ほんのり残念そうな様子を見せた。
たった数日の間で、宿泊先のオーナーとこれほど気さくな関係を築けたのは、この町が初めてだと、アデルも表情を柔らかくして、それに答える。何度も任務であることを忘れそうになるという窮地(?)に立たされたことも確かだ。それだけ、本当に心休まる良い町だった。

ここで過ごした数日、任務の目的であるリリスの様子をずっと観察してきたが、少なくとも自分の見るところ、彼女はたった一人であの“魔女の岬”と呼ばれる丘の上の家に暮らしていること以外に、普通の少女と変わるところは見られない。
ここに来てからの目立った変化といえば、自分の知識にトマトの苗の植え方と飲み物の種類に関する情報が増えてしまったことくらいだ。アッサム、カモミール、アールグレイといった名称は、アデルの辞書の新しいページに記されていた。
特に、カモミールは要注意だ。通常ならば、そんなところに分類されるものではないはずの飲物は、彼の中では危険物扱いの項目に加えられている。

「おう、ガーランドさん。今日は、良い苺が入ってるよ。買ってかないかい。」
「あ、いや・・・;;」
「ガーランドさん、そこの川で今朝釣れたばかりの鮎があるよ!どうだね、今夜の夕飯に女将へ頼んでみたら。」
「え、えぇ、ありがとうございます;;;」
本当に、気を許しすぎた。
町中を郵便局の方向へ向かいながら、アデルはまだ宿から出て数メートルも進んでいないというのに、早くも疲れを感じていた。なにしろ、行く先々で声がかかる。ここへ来てから、リリスと連れ立って町を歩き回ってしまった所為か、やたらと町の人から声をかけられるようになってしまった。顔と名前を覚えられてしまったこともあるが、何より、彼がリリスの客人だと聞いたせいか、みんながみんな、アデルに対して妙に親切に接してくるのだ。嫌われて追い払われることに比べれば幾分かましだが、隠密行動をとるべき立場のアデルからすれば、非常に不本意なことだった。
(やはり、ここからは一刻も早く立ち去らなければ・・・)
手に持った手紙をぐっと強く握り込む。


「はい。確かに受け付けました。」
眼鏡をかけても尚、目を細めながら宛名を確認する老眼の紳士は、そう言ってアデルから受け取った郵便物を自分の後ろの棚の中へと入れた。背はもう随分と縮んでしまっているように見受けられるその老人を、アデルが”紳士”と心の中で称したのは、その老人の服装が年の割に洒落ており、且つ飾り過ぎず、小奇麗に整えられていたからだ。
センスの良い奥さんがいるのか、その人自身がそういった部分に気を使う性質なのかは分からないが、この人物の柔らかな対応からして、良い歳の重ね方をしてきたのであろう。
この町の住人は、どの人も違わずそういった空気を纏っている。


『ここのところ、アデルさんが毎日ここへ来てくれることが嬉しくて。アデルさんは、ここでのお仕事が終わったら、帰っていってしまうんだということを考えたら、なんだか急に寂しくなってしまいました。』


(「寂しい」・・か・・・・)
ほんの1週間のはずが、なんだか随分と長い時間をここで過ごしたような気がする。
アデルは胸の中に浮かび上がる久しく感じた事のなかった気持ちに、多少なりとも驚いていた。寂しいなどと、そう思ったのは一体いつ振りだろうか。下手をすると、かなり幼少の頃まで記憶を遡らなければいけないかもしれない。
そんなことを考えながら、すでに足は、自然とお決まりの場所へ向かう。今日ばかりは「任務」というよりも、彼女へ別れの挨拶をするべきだという気持ちと、久方ぶりの「寂しさ」も相まって、無性に彼女の出してくれるお菓子や紅茶を飲みたいような気がしていた。

そんな時だった。

「誰か・・・・っ!!!!」

町の中央を通る太い道に出て、丁度岬のある方角へ足を向けたのと同時。
突然、左手の横道から一人の女性が駆け込んできた。30代前後で教会独特の衣服を身に纏ったその女性は、相当慌てて走ってきたのか、かなり息が上がっていたが、それに反して、顔色はやけに青ざめていた。
アデルも含め、通りを歩いていた者が皆、足を止めて、彼女に注目した。近くの店先にいた主人が顔を出して「なんだ、シスター。そんなに血相を変えて、一体どうしたんだ?」と呑気な調子で声を掛ける。

「誰か・・っ!子供が・・・!子供が、崖から落ちて・・・っ!!!/////」

「!!」
瞬間、通りが俄かにざわめいた。「子供が!?」「どうして!!」といった声が一斉に飛び交い、さざ波の様に駆け巡る。呑気な声を出していた店主も、驚きで声を失っていた。
ざわめきで満たされる通りの真ん中で、女性はひたすら「誰か」と狼狽えながら、息も苦しそうに助けを求めているのだが、動揺が独り歩きしたまま、周囲の人々はその存在が目に入らなくなってしまった様子で、近くの者と言葉を交わすことに夢中だ。
アデルは女性の傍に駆け寄ると、震えるその肩に手を置いた。

「場所は?」

その時、一瞬の躊躇もなかったことを、アデルは後々思い返す度に不思議に思うことになるのだが、この時は自分でも驚く程自然と足が前へ出ていた。
アデルの呼び掛けに驚いた様子で、しかしなんとか息を呑み込むように喉の奥へ追いやると「あ、む、向こうの・・・・」と、女性はやっと口にした。元来た道の方向を差す指先は酷く震えていて、どう見てもまともに対処が出来そうな様子ではない。アデルは、へたり込みそうになっている女性の身体を支えながら立ち上がらせる。
「そこまで案内してください。」女性は、無言で震える頭を縦に振る。
「誰か!長い頑丈なロープを!!それから、力のある男性陣は一緒に来てください!人手がいります!!!」
アデルの呼び声に、漸く事態に対処することへと頭が働き出した街の人々は、一斉に声を掛け合う。
「ロープだ!誰か、ロープを!!」
「家の裏に、頑丈なのが1本ある!」
「俺も一緒に行くぞ!」
周りの人間たちが、慌てながらも対処するために動き出したのを見ると、アデルは女性の目を見て力強く頷いてみせた。それに対して、ほんの僅かだが、女性も気を取り戻してきたのか、先程よりもはっきりとした頷きを返した。
「こっちです・・・っ!!!」
女性に続いて、アデルと町の男たちが崖の方へと駆けていく。

問題の崖は、町の中央道から横道に折れて、海側へ向かい、家や店が立ち並ぶ区画から十数m程離れた場所に建てられた教会の脇を過ぎたところにあった。

この町は一本の中央道を挟んで両側に形成されており、その更に外側には、中央道と平行した形で片側が森、そしてもう片側は一面海に面している。海に面した陸地は、一番低い位置に港があり、町から少し外れた教会の方角に向かって陸地が高くなっていた。教会を通り過ぎて、中央道を更に丘へと登った場所に位置する魔女の岬は、町の中では一番の高台になる。
教会の真裏は、リリスが暮らしている小さな家と同様に、海に面した切り立った崖となっていて、途中までは木製の杭とロープによる簡易的な囲いが施されているのだが、それは、ある一点で途切れてしまっていた。
「あそこは、去年の嵐の時に、波に呑まれて柵がもってかれちまった所じゃないか!」
「だから、早いとこ、修理しておこうと言っとったんだ!わしは!!」
男たちが声を荒げる中、アデルはすぐに崖の傍へ近寄ると、その下を見下ろす。

町の住人たちが話している波の所為かは分からないが、陸地に向かって抉れた形状になっている崖は、すぐ下まで海水が入り込んでおり、海から打ち寄せる波がその壁面へと当たっては砕け、白い小さな泡が幾つも作られていた。
その切り立った崖の途中、ギリギリ波に呑み込まれない高さに、崖から突き出た岩棚がある。その上に小さな体が横たわっているのが見えた。

裾の広がった服の形状からスカートを履いているのが分かった。髪が2つに束ねてあることが、辛うじて確認できる。女の子だ。
子供は、ピクリとも動く気配がなく、ぐったりとしているように見えた。気を失っているだけならばいいが、どこか怪我をして体を動かすことが出来ないのだとしたら、その怪我の度合いによっては、早く医者に見せなければならない。
「ロープを。」
アデルは目測で、少女までの距離が約20mだと推測すると、右隣りから同じように崖下を覗き見て、すっかり青ざめてしまっている細身の老人へ促すように手を差し出した。
老人は慌てて、手にしているロープをアデルへと手渡す。

己の腰に巻いたベルトへロープの片側を手際よく結びつけ、崖から少し離れたところに、見るからに地に深く根をはっている樹木を見留めると、その太い幹へとロープを回した。
その間、当然のことながら、このような事態に慣れているはずのない町の男たちは、戸惑いの表情を浮かべ、ただアデルのすることを見つめている。
「すみません。この木へ回したロープの反対側を持っていてください。これから、俺が下へ降りるので、ゆっくりとロープを降ろしていってくれますか。」
アデルがそう声を掛けると、男たちは慌てて駆け出し、こわごわとした手つきでロープを握りしめた。皆一様に、今まさに、あの切り立った断崖絶壁へ降りていこうとしている青年に不安そうな視線を送る。
「あ、あんた、本当にこんなロープ一本で大丈夫かね。わしには、その、どうにも・・・」
「頑丈なロープなんでしょう?」
先程まで、我が家のロープが一番と言わんばかりに粋がっていたはずの老人へ、確かめるようにそう声を掛けると、老人はぐっと一度口を噤み、硬い表情で静かに答えた。「・・・大丈夫だ。」「それなら、問題ない。」
あまりにもあっさりとそう言い切ったアデルの目が、確かに自分たちを信頼していることを見て取ると、男たちの表情は一気に引き締まった。

「ゆっくり!少しずつだ!!」
その声に応えるように、じりじりとロープが降ろされる。アデルはベルトから伸びるそれを両手で持ち、後ろ歩きに壁を伝いながら、目標に対して背を向けた格好で、ゆっくりと崖の下へ沈んでいく。10人ほど集まった人員のうち、力に自信のある7人が木に回ったロープの先を持ち、残り3人は、崖を降りていくアデルの様子を見ながら、ロープを降ろす男たちに声を掛けていた。
額に脂汗を浮かべながら見守る住人達に、アデルは「大丈夫だ」というように強く、何度も頷いてみせる。
「あと少しだ!!」
漸く足が岩棚に掛かるというところで、アデルはそこに横たわっているのが、つい先日、リリスがレースを納品しているという老婆の店で出会った、孤児院の少女であることに気が付いた。
(確か、エミリーと言っていたか。)
曖昧な記憶を呼び起こしながら、アデルは少女の状態を確認する。息はありそうだが、アデルが近づいて来ても目を開ける気配はなく、身じろぎ一つしない。
「足が着いたぞ!その辺で、止めてくれ!!」上から見守っていた1人がそう声を掛けると、アデルがしゃがみこめる程度の余裕をもたせて、ロープは止まった。
子供一人が横たわっているだけで、殆どいっぱいいっぱいというスペースに、慎重に足の向きを変えて、手を伸ばす。一度、その小さな口に手を当ててみるが、潮風が強く、か細い呼吸を手のひらに感じ取ることが出来ない。無理な態勢からなんとか胸に耳を当てる。そうすると、とくりとくりと幼い鼓動が鼓膜を揺らした。
(大丈夫。気を失っているだけだ。)
息を詰めて見守っている頭上の人々へ、アデルが手振りで少女に息があることを伝えると、瞬間的にわっと小さな歓声が上がる。しかし、頭上の歓声に耳を傾ける間もなく、アデルはすぐに傍ら少女の方へ向き直った。
(・・・急に動かすのは危ない。どこかにまだ怪我をしている可能性がある・・。)
アデルは、更に慎重な手つきで小さな身体に触れながら、他に異常がないか確かめる。一見したところ、大きな出血のようなものはなく、手足の小さな切り傷、掠り傷のみしか見受けられないが、打ち所が悪ければ、出血はなくとも危ないことには変わりないのだ。

「エミリー!エミリー!!」
声を掛けながら、軽く頬を叩いた。
(意識が戻り、話が出来る状態になるようであれば、一先ず安心しても大丈夫なはずだ。)
「エミリー!聞こえるか!目を開けるんだ!エミリー!!」
「・・・っ」
小さく眉を潜めるような仕草の後、少女は薄い瞼を開けた。
「エミリー!こっちを見るんだ!俺が分かるか?」
ゆらりと羽虫を追うような動きで視線を彷徨わせると、2つのヘーゼル色をした瞳は、アデルの顔の方向を見つめて止まる。虚ろな表情だが、そこにアデルがいることは認識できているようだった。
はくはくと唇が動く。声は出ていないが、その動きから、「おにいちゃん」と動いていることは読み取れた。
「そうだ。前に、リリスと一緒にいた。分かるか?」
頭が小さく上下する。それが了承の頷きととると、アデルはホッと胸を撫で下ろした。
これならば、大丈夫そうだ。そう判断して、少女の身体を起き上がらせようと、幼い背中に腕を回した。

「・・・わた、し・・っごほっ、ごほっごぼっ!」
「!!」

しゃべろうとして咽た瞬間、ドロリと、どす黒い液体が少女の小さな口から溢れ出る。
血だ。
(内臓が、やられている・・・・!)
「誰か!医者を呼んできてくれ!!すぐに治療が必要だ!」
頭上へ声を掛けると、見下ろしていた者のうち、若い1人が慌てて走って行ったのが見えた。エミリーの身体を胸の前に抱き上げ、もう一度声を掛ける。
「ロープを引き上げてくれ!」
降りてきた時とは逆に、今度は壁面を歩いて登るように足を掛けながら引き上げられる。
横抱きにした少女の身体は、あまり体勢を変えないように、ピンと張ったロープと己の胸の間に置き、左腕で頭の後ろを支えた。右手はロープを握りしめ、揺らさぬよう微妙な姿勢を保ちながら、引き上げられる速度に合わせて、足を前へと繰り出す。
その間にも、エミリーは苦しそうにぜいぜいと喉を鳴らしながら、時折、血を吐き出していた。

2人が崖の上に近づくにつれ、その様子が鮮明に見えて来たのか、目に涙を溜めたシスターが真っ青な顔で口元を押さえている。いつの間にか、ギャラリーが増えていた。
教会の他のシスターたち、同じ孤児院の子供たち。町の人々も、周囲を取り巻いている。
手の届く範囲まで上がってきてから、上にいた者に、先に少女の身体を預けた。
続いて、アデルも崖の上に上がる。

「エミリー・・!!」
「大変だ、こりゃ・・・。」
地面に横たえられたエミリーの様子は、痛々しいものだった。
ワンピースの胸元は、吐き出した血溜まりで真っ赤に染まっており、駆け寄ったシスターは泣きながら、鮮やかな胸元とは対照的に、どんどん色を無くしていく小さな手を握りしめて、何度も名前を呼ぶ。
「医者は?」
「今、呼んできとる。」

「おーーーい!!」

医者を呼びに行った若者が駆け戻ってきた。周囲の者は皆道を開け、彼を先へ通すが、何故か彼1人のみで、他に誰かを連れて来た様子はない。
「おい、先生はどうした!」
「それが、今日は朝から、隣り街まで行っちまってるって・・・!!」
「なんだとっ!?」
息を呑むような音が、周囲から聞こえた。シスターは声を詰まらせながら、「そんな・・っ」と信じられないような様子で、絶望の表情を浮かべる。
軍の訓練の延長で得たような応急処置の知識しか持たないアデルには、流石にここまでの重傷者を助ける術はない。
真っ青で、呼吸も浅い少女の様子に、アデルも暗い面持ちを隠すことが出来なかった。



「リリスちゃんのところへ運びましょう。」

突然、落ち着いた、しかしはっきりとした声が、人の間を割って飛び込んだ。
ざわついていた群衆は、一瞬で静かになり、声の元となった人物が、少女の傍にしゃがみこんでいるアデルの目の前に立つ。同じようにその場に屈み込むと、優しい皺の刻まれた手で冷や汗の滲む小さな額を撫でた。
「アデルさん。エミリーちゃんを、岬まで運んでくれるかしら。」
「しかし、内臓がやられています。薬草などでは、とても・・・」
戸惑いの表情を浮かべるアデルに、マルグリットは有無を言わせず「お願い。」とそう一言告げた。他の者へ視線を向けるが、何故なのか、皆、一様にむっつりと黙り込んでおり、彼女の提案を否定する者もいない。こうしている間にも、足下の少女の容態はどんどん悪くなっていく一方だ。
アデルは、少女を横抱きに抱え上げた。


岬への道を、マルグリットとシスター、数人の町の人々がアデルと共に登っていく。
医者を呼びに走ったのと同じ青年が、先に行って事態を伝えてくると魔女の岬まで駆けていった。
聞きたいことは、山のようにあった。医者ではなく、何故リリスなのか。今は町の医者が不在だとはいえ、その次に上がる選択肢が、町はずれで薬草を煎じた薬を作っている少女というのは、どうも納得がいかない。リリスは、薬草を扱っているというその特異性からか、一般人よりは怪我や病に関する知識があるようではあった。この町では、医者を除いて、リリスよりもそういった知識に長けた者がいないのかもしれない。それでも、すぐにでも手術が必要と思われる患者を運び込むのに、最適な場所とは思えない。
(しかし、誰も・・・)
そう、誰もその意見に否を唱えることはなかった。ここにいる誰もが、リリスのもとへ連れていくという選択肢が、今の最善策であると納得しているようなのだ。
そして、何よりも異様だったのは、町の人々の反応だった。
(何故、誰も何も言わない・・・)
魔女の岬へ向かうと決まってから、人々は急に口を閉ざした。反対する者はいないが、それでも、こうすることが本当にいいのか迷っている様子で、何故か時折、アデルの方を気にしている。
自身へ向けられる視線に気づきながらも、アデルは周りに従うように黙々と歩みを進めた。
小屋が見えてくる。


「エミリーちゃん・・・っ!!」
門の傍まで来ると、慌てた様子でリリスが家の中から飛び出してきた。
それに続いて、先に駆けていった青年が、タオルやお湯の入った器などを抱えて出てくる。
駆け寄ってきたリリスは、もう、いつ息が止まってもおかしくない状態のエミリーを見て、深刻な表情で、きゅっと唇の端を噛んだ。
「内臓が傷ついている。一刻も早く手術をしないと、この子は助からない。」
それまでエミリーへと向けられていた視線が、アデルの表情を伺う。いつもの澄んだ色をした瞳が、不安で揺れていることに、アデルは内心で驚いた。ここへ来てから今日まで、そんな顔をした彼女を見たことがなかったからだ。
「リリス・・・?」
リリスは不安の色を隠すように、一度瞼を閉じると、何かを決意したのか、次に開けた時には、いつもの澄んだ表情に戻っていた。

「・・・リリスちゃん。」
マルグリットが、彼女の肩に優しく手を置く。それは、彼女に「大丈夫だ」とそう言っているようで。しかし、マルグリットがそうする意味が、アデルには、何一つ分からなかった。
その様子を周りで見ている人々も、不安を隠せない表情で、成り行きを見守っている。
アデルは、この中で自分だけが現在の正しい状況を把握できていないことに、妙な居心地の悪さを感じていた。
「アデルさん、エミリーちゃんをそこのチューリップ畑の近くに降ろしてください。」
「え?」
「急いでください。時間がありません。」
ここまで来たのは、エミリーを治療するためだ。これから、リリスがそれをするのだということは分かるが、何故、わざわざ地面の上に患者を横たえるのか分からない。だが、時間がないことは確かで、冗談で言っていることではないのは、空気を読む能力に長けた者でなくても分かる。
その言葉に素直に従い、アデルは赤や黄色の花をつけ、ピンと伸びやかに咲いている花たちのすぐ傍にエミリーの身体を横たえた。

「ごほっ、ごほっ・・・・」
口端から溢れる血液を、お湯で絞ったタオルで拭う。エミリーの顔色は、最早生きているのが不思議な程真っ青になっていた。
「もう少しだけ、頑張ってね、エミリーちゃん。すぐに苦しくなくなるから。」
優しくかけられる言葉は、まるでこれから静かに息を止めるかのような響きを孕んでいて、アデルは途端に不安になる。もしかすると、彼女はここでこの少女の命の鼓動を止めるつもりなのではないかと。

「リリ、ス・・・」
思わず、声を掛けようとしたところで、背後に立っていたマルグリットが、掌をアデルの左肩に乗せて、やんわりと押し止める。
自分でもどうしたかったのか分からない、無意識に上がっていた右手を、アデルはゆっくりと降ろした。
そのまま、他の者と同じように、息を殺してリリスの動向を見守る。

リリスは、精神を集中するように深く呼吸した。そして、一度胸の高さへ上げた両手を、静かに降ろしていく。それはまるで、そこにある空気の存在を確かめるような、酷く重たい動きだった。左手はエミリーの腹の上に。右手は、チューリップ畑のすぐ下の地面の上に置かれた。
(何を、しているんだ・・・?)
アデルは、その不可解な行動に眉を顰める。治療と呼ぶには、あまりにも静かで、だが、何か不思議と、神聖で厳かな空気が漂っていた。


――-----------―――ンッ――――


(なんだ?・・・・耳鳴り?)
不意に、不思議な音が聞こえてきた。鼓膜の奥で鳴る高い音。ピンともリンともつかない、脳に直接聴こえているかのような音に、アデルは周囲を見渡す。
辺りの景色に変化はない。見守る人々も、少女の回復を祈って、胸の前で手を組むシスターも、誰も様子が変わったところはなかった。
そして、アデルは視線をすぐ目の前のリリスへと戻して、ハッとする。
リリスの周りが、ほんのりと明るくなっていた。地面から、いや、彼女自身から強い熱量を感じる。リリスの淡い紅茶色の髪が、たゆたうように宙に浮きあがっていた。
(風・・ではない。)
まるで、身体から発せられる蒸気に煽られて、浮かび上がっているようだ。
何が起こっているのか、理解に頭が追い付かない。
エミリーと地面に当てられた彼女の掌から、何か想像もつかないようなエネルギーが発生している。肌に感じられる熱と、目に見えるあたたかな光の存在は、有り得ないと、頭では分かっていても、とても否定できるようなものではなく、何か、とんでもないことが起きているという、ただそれだけが理解できた。

そして、アデルは死の淵に立たされていたはずの少女の変化に気が付く。
(傷が・・・治っていく・・!)
手足や頬にあった掠り傷は徐々に塞がっていき、元通りの滑らかさを取り戻していた。少女の顔に、血の巡る色が差す。紫色に変色していた唇が、赤い紅を落としたように色づいたと思った時には、全てが終わっていた。
気が付くと、リリスの身体から放たれていた熱も光も、なくなっている。先程まで、ピンと背を伸ばし咲いていたチューリップの花が、何故か全て力なく頭を垂れ、枯れ果ててしまっていた。
エミリーが、そおっと、息を吐き出した。その呼吸は、つい先程までの息苦しさを全く感じさせず、喉を塞いでいた血液はどこへいったのか、深い、安らかな呼吸を繰り返していた。胸が緩やかに上下する。
アデルは、目の前で起こったことが信じられずに、ただ、回復したと思われる少女の姿を見つめていた。

「もう、大丈夫です。」
額に汗の滲む顔で、リリスは微笑みながら振り返る。途端に、息を詰めて見守っていた周りの者たちは皆、安堵の息を吐き出し、よかったよかったと口々に言い合った。
「ああ、よかったっ・・・本当にっ///」シスターが、もう体中の水分を使い果たしたのではないかと思うくらい泣いた後だというのに、更に頬を湿らせながら、幼い身体を抱きしめる。目を覚ましてはいないが、少女が穏やかな表情でいるところを見ると、もう、危険な状態でないことは、一目瞭然だった。
「まだ、体力は回復していないと思うので、帰ったら、ゆっくり休ませてあげて下さい。」
「ええ、ありがとうっ、リリスちゃん///」

周りの人間たちが、各々、町の方へ帰り始めた頃になって、アデルは、漸く金縛り状態から、気を取り戻した。慌てて、リリスに声を掛けようと立ち上がる。
「リリ、」
「あ、わ、私はこれを片付けないといけないので、これで・・っ」
「リリス・・!」
伸ばした手の先を肩が掠めた。アデルとは目も合わせず、家から持ち出してきたタオルなどを抱えて、俯きがちに走り去るリリスの背中を、また呆然と見送る。
いや、呆然と見送っている場合ではない。聞かなければいけないことがあった。

「アデルさん。」

後を追おうと足を上げかけたところで、背後から呼び止められ、アデルの右足は再び元の位置に戻される。振り返ると、マルグリットがじっとアデルを見つめていた。曲がった背筋を少しだけ伸ばしたその立ち姿には、毅然とした態度が感じられる。すでに、他の者は丘を下って行ってしまい、今はもう、マルグリット1人が残るのみだ。
「私はね、貴方を買っているの。」

「貴方がどうしてこんな小さな田舎町までやって来たのか。それは、リリスちゃんの・・・貴方も見た、先程の現象が関係しているのではない?」
「・・・・。」
「答えられないことなら、これ以上聞かないわ。きっと、何か大切な事情があっての事なのでしょう。」
マルグリットの言葉は、ゆったりとしていながら、淀みなかった。否定の言葉を挟む余地はない。
「・・・・そう思いながら、どうして俺が彼女に近づくのを許したのですか。今日の事で、貴方が俺を彼女の元へ連れて来なければ、俺は何も知らないまま、明日には、ここを去ることになっていたのに。」
アデルはもう、取り繕うことはしなかった。今それをすることに、何の意味もないということが、はっきりしていたからだ。
マルグリットは眉根を下げ、毅然とした表情から一転、寂しそうな瞳で笑う。

「あの子はね、とても優しい子よ。アデルさん。優しくて、そして、とても悲しい子。
貴方が、あの子に連れられて私の店に現れた時、私、“ああ、この人だ”って。“この人が、リリスちゃんを箱庭の外に連れ出してくれる人なんだ”って、そう確かに感じたの。
・・・・貴方は幾つか嘘をついていた。事情は何も分からないわ。でもね、アデルさん。その人の心の有り様は、誰にも隠せないわ。貴方がどんな心の持ち主であるかということだけは、決して隠せるものではないのよ。」
そこまでを一息に吐き出すと、マルグリットは眩しさに目を細めるような顔をした。
「貴方のお祖父さんが、ブラウンさんのお知り合いだという話。私、信じたいと思ったのよ。貴方のことを・・・信じようって思ったの。」



アデルは、丘を下る道の向こう側に見えなくなるまで、マルグリットの小さな背中を見送っていた。
そして、それが完全に見えなくなってしまうと、目の前の小さな家に、改めて向き直る。
確かめなければいけないことがあった。少女を助けた不思議な力。枯れてしまったチューリップ。彼女が、自分の探していた人物なのか。

家の木戸に手を掛けると、それは何の抵抗もなく、年代物の軋んだ音を立てて開いた。
室内は、今が丁度、日が窓から入らない角度に昇っているためか、薄暗い。
家の中に入って、すぐ右手側に置かれた長方形のテーブルの、アデルから対角の位置にある椅子に、入口から背を向けた形で座っているリリスがいた。俯いたその手には、片付けなければと慌てて持って行ったはずの、血で汚れたタオルが握られたままになっている。
「・・・片付けなくていいのか?」
細い肩が、ピクリと揺れた。しかし、彼女は顔を上げない。
聞きたいことは沢山あったが、そのどれも、上手く切り出す言葉を見つけられずに、アデルは、気まずい空気に耐え切れず、なんでもいいからと場を繋ぐ言葉を探す。
「・・血は、時間が経つと落ちにくくなる。早めに洗ったほうがいい。」
言いながら、自分の服も、エミリーの吐き出した血でべっとりと汚れてしまっていることに気がついた。

「・・・・・・す・・・。」
「え?」
「・・・騙すつもりじゃ、なかったんです。」
リリスの声は小さかった。
俯いたまま、表情は見えない。だが、何かを真剣に、必死に伝えようとしていることだけは分かった。
その声を聞いて、アデルも、自分が聞かねばならないことと、向き合う覚悟を決めた。

「さっきの、その、・・力は?」
「・・・・小さい頃から・・私には、不思議な力がありました。この力を、なんと呼んでいいのか、私にも分かりません。この掌で触れたモノの生命エネルギーを奪い取って、それを別のモノへ分け与える力。」
枯れていた庭のチューリップの姿を思い出す。
チューリップの生命エネルギーが、リリスの身体を媒介として、エミリーの傷を癒した。彼女の言っていることは、そういうことだ。
似たようなことを、彼女は以前、薬草を作ることについて言っていた。
「前に話していた、薬草の話は・・・」
「そのお話は、嘘ではありません。薬草作りは、何も特別な力は使っていません。植物の持つ生命エネルギーを、人が取り込みやすい形にしているだけ。私の力は・・・・それをちょっと強引な形で出来る・・・というだけ・です・。」
”それだけ”という言い方をする割には、リリスはどこか自分のその力を恐れているように見えた。ぎゅっと、強く自身の手を握りしめている。
「初めてアデルさんにお会いした時、・・・『君が、”魔女”と呼ばれている人物か』と聞かれました。その時お答えしたことも、嘘ではありません。この場所で、”魔女”と呼ばれていたのは、私の祖母でした。この岬の素敵な庭や、良く効く薬草を作る祖母のことを、町の皆さんは敬意と親しみを込めて”魔女”と称していました。そして、いつしかこの場所も、”魔女の岬”と呼ばれるようになっていました。」
そこまで話すと、リリスはやっと、アデルの方へ身体を向けた。振り向いたその顔は、酷く思いつめた表情をしていた。

「今日まで、アデルさんにお話したことに、嘘はありません。でも・・・・この力のことだけは、どうしてもお話することが出来ませんでした・・・。」
それはそうだろうと、アデルは思う。彼に、リリスを責める気持ちは全くなかった。
今になって、魔女の岬へ行くことになった時の、町の人々の視線の意味が分かる。リリスのあの特別な力の存在が、外部の人間に漏れてしまうことが、どんなに危険なことか、それは想像に難くない。下手な人間にバレてしまったら、噂は瞬く間に広がっていき、その力を悪用しようという人間が必ず現れる。そしてそれは、リリスの身が危険に晒されるのと同義だ。

『私はね、貴方を買っているの。』

マルグリットは、アデルを信用したからこそ、この場に彼を連れてきた。そして、彼女の信頼を感じ取ったからこそ、戸惑いながらも、町の住人たちは、何も言葉を挟まず、マルグリットの意見に従った。
(リリスが今まで、何事もなく暮らしていられたのは、この町の人達が、こうして彼女を守っていたからだ。)

アデルは、その住人たちが築き上げてきたものを、今、自分は壊そうとしているのではないかと、瞬間、躊躇する。
自分のここまで来た目的を、使命を、忘れたわけではない。それが、いかに重要なことかも分かっている。しかしアデルの唇は、それを、口にすることを躊躇っていた。

「・・・・私の力、驚きましたよね・・。」
「・・・・。」
「あの、私・・・っ!」
リリスは、泣き出しそうな顔でアデルを見る。しかし、大きく一度息を吸うと、また顔を俯かせてしまった。
そして、震える声で、言った。

「私は、・・・アデルさんの考えているような、怖い魔女じゃ、っ・・・ありませんっ・・」

膝の上に乗せられた手が、細かく震えていた。
そこでやっと、アデルは自分が大きな思い違いをしていたことに気が付く。
リリスは、アデルに力の事を告げず、彼を騙すような真似をしたことを、気にしているのではなかった。彼女は最初からずっと、魔女の岬に住んでいる“魔女”の存在を気に掛けていたアデルに、怖がられ、嫌われてしまうことを恐れていたのだ。
そのことに気が付くと、アデルの口元は、自然とほどけた。思わず、笑い声が漏れてしまいそうな程、急激に気持ちが軽くなって、今まで纏わりついていた緊張の糸がほろほろと緩んでいくのを感じる。
目を伏せたまま、アデルからの言葉を恐々と待っているリリスの姿に、緩んだ口の先から、思わずため息が出た。その音にすら、ビクリと反応する縮こまった肩が可笑しかった。

確かにアデルは、彼女が魔女なのではないかと疑っていた。しかし、それはあくまでも、任務のために、そうであるか否かを見極めなければならなかったからだ。
そもそも、魔女と呼ばれる者が、一体どういった人間なのか、彼には全く想像もつかない未知の存在だった。だから、彼女が何かをする、そのことある毎に、様々な可能性を考えて、通常よりも余分に警戒していたところがあった。
彼女はずっと、アデルが魔女の存在を気に掛けていること、そして、それを恐れていることが分かっていて、まさか、自分にこんな力があるなどとは、言うことが出来なかったのだ。
(しかし、力を知られることを心配するのではなくて、それを知られることで、俺に怖がられることを気にするなんて・・・。)
アデルは、彼女の様子を伺っていた今日までの数日間で、拍子抜けするような思いを何度もしてきた。そしてもう、十分すぎるほど分かっていた。
この少女が、人に危害を加えるようなことなど、するはずがないのだと。

「・・・俺も、君に話していないことがある。」
「・・・?」
リリスの顔が上がる。不安に揺れる瞳が、アデルの心を推し量ろうとしていた。
アデルも、もう彼女に全てを話すことに躊躇いはなかった
「俺がこの町へ来たのは、噂の真意を確かめるためだ。」
「・・・噂・?」
「人伝てに・・・それも、酷く曖昧で不確かな情報で、ただ、『どんな病でも治す魔女がいる』と・・・そう聞いて、噂の元を探り、辿り着いたのがこの場所だった。」
「!」
「安心していい。恐らく、俺が聞いた噂は、君のお祖母さんのことだ。人によって伝聞の内容に差はあったが、誰も君ほどの特別な力の存在を臭わせることは言わなかった。
・・・ただ、どのようにして治すのかという部分について、詳細を語る者がいなかったから、俺にも想像がつかなかった。“魔女”という呼び名に、怪しい呪いのようなものを想像していたことも確かだ。それで君を不安にさせてしまったことは、謝る。すまなかった。」
何を謝られているのか呑み込めないまま、リリスは「いえ・・。」と小さく答えた。そして、おずおずと尋ねる。
「あの、どうして・・・アデルさんは、その噂を探っていたんですか・・?」
当然と言えば、当然の質問だろう。アデルは一呼吸置くと、言葉を待っているリリスの視線を感じながら、一歩ずつ、長方形のテーブルを回るように足を進めた。そして、リリスのいる方へ近づいていく。
「ここで、魔女と呼ばれている人物が、どのような人物か、そして、どのような能力を持っている者なのか、それを実際に会って確かめ、見極めなければならなかった。」
「見極める・・?」
「その人物が、我が国に、必要な人材であるのかを。」
「アデルさ、・・・」

アデルは、リリスの目の間で立ち止まり、座っている彼女の目線に合わせるように、片膝をついた。
突然のアデルの行動に、リリスの目が驚きで見開かれる。


「俺は、ガーデンハート国、国軍少佐。アデル・ガーランド。
リリス・ブラウン。君に、俺と共に、我がガーデンハート国に来てもらいたい。」


To be continued....