『Garden』
第一章:魔女の岬に住む少女


―6―

宿屋の女主人は、庭へ洗濯物を干し終え、店先に心ばかり置いてある鉢植えへ水をやると、窓辺に寄り、目覚め始めた街の喧騒に耳を傾けていた。
あまり行儀の良い食べ方とは言えないが、息子が焼いた自家製パンの売れ残りを一口サイズにちぎりながら紅茶に浸して味わう。
大方、朝の家事仕事を終えてしまった彼女が、一息吐ける何でもない朝のひと時。

向かいの酒屋は、まだ開かない。主人よりも先に姿を現したのは、そこで飼われている老犬で、よたよたと覚束ない足取りで出てきては店先に座り、のんびりと大きな欠伸をしているのが見えた。
(お向かいのジョンも、もう歳ねぇ・・・。)
向いの主人は、飼い犬が亡くなる度に新しい犬を飼っているが、今、自分の目の前で呑気な姿を見せているのは、ジョンだったか、はたまた、マイケルだったかしらと、他愛もないことに思いを馳せる。そんな、贅沢な時間の使い方が出来るということが、何よりも幸せだ。
そうして、彼女が朝靄の引いていくのをのんびりと眺めていると、突然、頭上から慌ただしい音楽が降ってきた。

ドッ、ドカッ!バタンッ!ドタッドッ、
ドッタッタッタッタッタッ・・・!!

慌てた調子っぱずれの足音に驚いて背後の階段へ目を向けると、丁度、足音の主である宿泊客の青年が、階下にその顔を覗かせたところだった。
酷く動揺した様子の青年の、いつもならばきっちりと整えられているはずの髪は、正に起き抜けのそれで、頭上の毛が見事に跳ね上がっている。

「おはよう、ガーランドさん。今朝は、よく眠れた?」
「お、おはようございます。はい。その・・・思いの他、深く寝入ってしまったようで・・あの、朝食の時間に間に合わず、申し訳ありません・・;;;」

何をそんなに慌てているのかと思えば、どうやら彼は、今朝の朝食に乗り遅れてしまったことを気にしているらしい。
確かに、ここへ泊りに来てから今日まで、彼が朝食の時間に遅れたことはなかった。とは言っても、ここでの朝食に、元々時間の縛りなどは存在しない。何せ、自分と息子と、極たまに利用する宿泊客の3人分だ。簡単な物ならば、いつでも出せる用意はあるし(もとより、こんな田舎街唯一の宿屋に、質の高い食事を求めるような客はいない)、何より、自分たち親子の起床時間は早く、朝食は基本的に6時とかなり早朝になる。

大抵の宿泊客は、昼の少し前にのんびり起きて来て、ほとんど昼食に近い朝食を、これまたゆったりととってから、街へ出掛けていく。実際、早起きをしてまで、観るようなところもない街だ。
宿泊初日から、自分たち親子と同じような時間帯に起きて来て、一緒に朝食をとる彼のような客人の方が珍しいのだが、どうやら、決まりとでも思っていたのか、片づけ等の手間を気にしてくれているようだ。

女主人は腰を落ち着けていた丸い座面の木イスから立ち上がると、律儀な青年の、見事に1段飛ばしで掛け違えているシャツのボタンを直してやった。
青年は、明らかに焦った顔をするが、そこは年季の入った女性だ。うむを言わせず、慣れた手つきで全てのボタンを正してやると、「はい、出来上がり。」とその胸を叩く。
「さ、顔を洗って、その跳ねっかえった頭を整えてきなさいな。その間に、あたしは朝食の準備をしておきますからね。」
指摘されて初めて気が付いたのか、青年は慌てて自分の頭を押さえた。
「あ、はいっ、 あ、いえ、その、あ、ありがとうございます;」
では、失礼して。などと言い置いて、来た時と同様、足早に階段を上がっていく。
その背を見送りながら、女主人は口元へ手を当てクスリッと微笑んだ。
初めてここへ来たときには、若いのに随分としっかりした人が来たものだと思っていたが、どうやらあれは気を張っていたのに違いない。こうして見れば、まだまだ幼さの残る、どこにでもいるような若者だ。

「さてと、私は朝食の用意をしましょうかねぇ。」

女主人は、調理台の上へ置いていたエプロンを手に取ると、手際よく腰に巻き付けた。





あれは、魔術の類に違いない。

アデルは、本日何度目かの考えを、再度、心の中で呟く。
普段より少し遅めの(といっても、十分に早い時間なのだが)朝食をとり、女主人に笑顔で見送られながら宿屋を後にした彼は、昨日までとは比べ物にならないくらい明るい顔色ながら、完全に疑心で満ちた表情をしていた。

魔女の岬へ向かう足取りは重く、しかし、任務とはいえ、ほぼ日課になってしまったその道程は身体に染みついており、勝手に目的地へと向かっていく。

(とうとう、正体を現したか。最近は、俺も心を許し過ぎている気がしていたが、どうやらそれは、向こうも同じだったようだな・・・。)

完全に不穏な空気を纏っているアデルに、活動を始めた街の住人たちが不審な目を向けているが、今の彼にはそんな視線を気にしているような余裕はなかった。
ここ世界の端に位置するネリネ国の更に端、ラントへ来て5日目。
彼は、とうとう敵(?)の尻尾を掴んだとばかりの勢いで、緩やかな丘陵地の道を上っていく。

目的地の岬へ着くと、身構えるようにして一度立ち止まり、それから勢いよく鉄門を押し開けた。
その動きが少々荒っぽかったからだろうか、アデルが声を掛ける前に小さな家の裏から顔を覗かせた少女は、ワンピースの上からエプロンを腰に巻いたスタイルで、洗濯物を手に明るく出迎える。

「いらっしゃい、アデルさん。」

その悪意の欠片も感じられない様子に、一瞬揺らぎそうになった気持ちを引き締め、アデルは強い口調で返した。

「リリス!今日は、君に聞きたいことが・・・!」
「昨夜は、よく眠れましたか?」

アデルが言い終える前に、リリスの言葉が被さる。気が付けば、洗濯物の白いリネンを左腕にかけて、アデルのすぐ目の前にまで迫ってきていた。その表情は真剣で、初めて会った時、頭を強く打ち付けた彼を気遣っていた時と同じ瞳をしている。
そのあまりの迫力に、いつの間にか、アデルは相手へ掛けようとしていた言葉を手放していた。
しばらく、アデルの顔色を伺っていたリリスは、そこに陰りが見えないことを確認すると、また元通りの明るい笑顔に戻り、安心した様子で告げる。
「どうやら、よく眠れたみたいで、よかったです。」
その言葉に、弾かれるようにしてアデルは口を開いた。
「やはり、昨日のあのカモミールティーという飲み物に、何か、まじないを掛けていたのか・・・!」


昨日、アデルはリリスに促されるがまま、魔女の岬に戻ると、彼女の入れたカモミールティーと、シスターからお裾分けされたというフィナンシェなるお菓子を食べた。
自分は、任務のためにこうして彼女のもとへ通っているのに、いつの間にやら、茶飲み友達のような扱いになってはいないかと、何度も頭の中で己のしていることへの正当性を問い正していたりしたのだが、そんな彼の胸中など知らないリリスが、ウキウキとした様子でお茶の準備を始めてしまったので、アデルにそれを断るような大した理由があるはずもなく、ここ数日の通り、それらを頂くことにした。

そこまでは、よかった。
異変が起こったのは、その日、早々にリリスと別れ、1人宿屋へと戻るその道程だ。常にないくらいの壮大な睡魔がアデルを襲った。
この睡魔とやらを実体化したならば、相当に禍々しい魔物が現れるに違いない。それ程の眠気に、アデルは疑問を感じつつ、宿屋まではなんとか辿り着くことが出来た。そこから先、自分が一体、宿屋の女主人に何と言って声を掛けたのかもおぼろげで、気が付くと彼は、着の身着のまま部屋のベッドの上に横になり、ここ数日分の睡眠を取り戻すが如く、深い眠りについていた。

そして、状況は冒頭へと戻る。
ハッとして目覚めたアデルは、しばらく、己の置かれた状況が理解出来なかった。服装は昨日のまま、何もせずにそのまま横になり、そういえば、夕食はどうしたのだったか。それすらも、思い出せない。
窓から差し込む日差しの明るさと、部屋の片隅に何とはなしに置かれている、インテリア性からは程遠い素朴な木の置き時計に目をやって、そこで漸く、彼は勢いよく起き上がった。
勢いのまま、ベッドから転げ落ちそうになったところを、なんとか鍛え上げられた脚力で踏み止まり、そのまま部屋から飛び出しそうになってから、いや、まずは服を着替えなければとシャツのボタンに手を掛けて、それを一つ一つ外しながらベッドの方へと引き返す。しかし、そこでフと、着替える云々以前に、一度、宿屋の女主人には、朝食に遅れてしまったことを詫びなければと思い立ち、慌てて脱ぎ掛けたシャツのボタンを再び留め直して、階下へと駆け降りた。
彼が女主人に指摘されて、漸くボロボロな己の姿を顧みる余裕が出て来た時には、アデルは、部屋の片隅に備え付けられた小さな洗面台の前に茫然とした表情で突っ立っていた。

鏡に映る自分の顔色は、昨晩よく眠れたためか、明らかに晴れ晴れとしており、昨日まで見ていた悪夢が嘘のように、眠っていた間、夢を見たような記憶は1ミリもない。
顔を洗って、服を脱ぎ、タオルで身体を拭いながら、彼はゆっくりと一つの考えに至る。

(あの飲み物に何らかの薬を盛られたに違いない・・・っ!!)

もしくは、魔術の類に違いない。
昨日は、すぐに帰ったからよかったものの、あのまま居座っていたら、自分は一体どうなっていたのだろうか。初めてリリスのもとを訪ねた時以来の恐ろしい想像をしてしまい、アデルは小さく身震いした。
所詮はただの少女だと思い込み、どこかで気を許してしまっていたのが敗因だ。
(俺は、もう少しで、あの子に食べられるところだったのかもしれない・・・)
やはり、あそこに住んでいる人間は、見た目こそ何の悪意もなさそうに見せておきながら、それはそれは恐ろしい魔女だったのだ。





そこまでの経緯をアデルが全て話し終えた時には、彼は何故か家の裏の小さなベンチに腰かけていた。
恐ろしい魔女だと、そう訴えられたはずの当人は、目の前で呑気にも洗濯物を干している。

ここまでのことを彼なりに、かなり真剣に伝えたつもりだったのだが、どうやらそれは、彼女に全くダメージを与えていないらしい。
それどころか、彼女はアデルの話を聞く間、どこか楽しそうですらあった。
初めて出会った絵本の中の物語を聞くような、そんなわくわくとした表情で、彼女が話の先を促すものだから、いつの間にか、アデル自身も必要以上に力説していたような気がしないでもない。
彼女を糾弾するくらいのつもりで、ここまできたはずだったのが、いつの間にか、魔女に襲われそうになった哀れな青年の物語の語り部になっていたような気分だ。

洗濯物を干し終えたリリスが、空になった洗濯籠を両手で抱えて、家の方へと戻ってくる。

「そういえば、この間買ったリンゴを使って、アップルパイを作ってみたんです。
 おやつにするには少し早いですが、お天気も良いことですし、
折角なので、このベンチで一緒に食べませんか?」

裏口の戸に手を掛けながら、そんなのどかな提案をされてしまえば、先程の話を一通り語り終え、毒気を抜かれきってしまったアデルは、「・・・そうだな。」などというおかしな返事を返すのが精一杯だった。
「ちょっと、待っていてください。」と言い置いて、リリスは籠を手に家の中へ消えていく。
アデルは肩透かしをくらったような気分で、しかし、これで彼女が本当に正体を現して襲い掛かってきた時はどうしようかなどと考えていたことからすると、幾分か安堵も交えて、小さく息を吐いた。

しばらくすると、フルーツのイラストで淵を彩られた大皿に、8等分に切り分けられたふっくらと大きなアップルパイを載せて、リリスが裏口から現れる。
両手で捧げ持つようにして出てくると、ベンチの右端に腰掛けているアデルの左隣りにその皿を置き、またパタパタと家の中へ戻っていった。
アップルパイから立ち上る豊かな香りに、美味しそうだとどこか他人事のように考える。アデルも、こののどかな空気に包まれて、先程までの己の激情が嘘のように静まっているのを感じる。話を全面的に聞き流されてしまったような気がしないでもないが、それならそれでいいという気すらしてきていた。

緑色に塗られた味のある木のベンチは、家の裏の物干し場とその更に奥に広がる大海が見渡せる位置にある。屋根の下にあるため、程よく日差しを防げるその場所は、海からの潮風も心地よく、のんびりとアフターヌーンティーを楽しむには、絶好の場所だ。

「お待たせしました!」

両側に金の持ち手が付いたトレーにケーキ用のフォークとティーポット、カップ&ソーサーを乗せて、リリスはアデルの丁度反対側に腰掛ける。
2人の間、アップルパイの隣にポットやカップを置き、テキパキと慣れた手つきでリリスが小皿に取り分ける様を、勝手の分からないアデルは手を出すことも出来ずに眺めていた。「はい、アデルさん。」と差し出されてしまえば、「ありがとう・・・」と返す以外に言葉もなく、また、やはりここまできて断ることも出来ずに、受け取るしかなかった。

「・・・また、変わった香りだな。」
受け取った紅茶を鼻先へ近づけてアデルがそう口にすると、リリスはにこにこと嬉しそうに「今日は、アールグレイにしてみました。」と答える。
もちろん、アデルの辞書にアールグレイなんて名前の飲み物は載っていないのだが、昨日の今日で、そこを敢えて聞くのもなんだか空恐ろしく、だからといって、このまま飲むのもやはり恐ろしい。気を削がれたからといって、昨日のことを忘れられたわけではない。

神妙な面持ちで、紅茶に口をつけあぐねていると、アップルパイを挟んだ左隣りから「フフフ」と小さな声が漏れ聞こえた。
「アールグレイなら、眠くなったりはしないと思いますよ。」
リリスの言葉に、アデルは顔を上げ、「じゃあ、昨日のはやはり・・・」と瞬時に顔色を青ざめさせる。そんな彼を面白がって、リリスは一度声のトーンを落とすと「そう、実は、闇の魔法を使ってアデルさんを・・・・」と言いかけて、面白くなってしまったのか「ウフフ」と笑い声を挟むと、「冗談です。」と白状した。

「昨日、アデルさんにお出ししたのは”カモミールティー”と言って、ハーブティーの一種なんですが、ハーブには色々な効能があるんです。
カモミールにはリラックス効果があって、不眠症の方なんかには、とてもオススメなんですけれど・・・すみません。まさか、アデルさんにカモミールティーがそんなに効くとは思っていなかったので、驚かせてしまいました。」
「普通は、そんなことにはならないはずなんですが・・・」と、不思議そうに首を捻りつつ、「きっと、アデルさんの体質にとても合っていたんですね。」と丸く収めるように言葉を閉じる。
アデルを安心させるように、自分の手元のアールグレイをこくんと一口飲み込むと、またにっこりと微笑んで見せた。

アデルは、幾度か視線を紅茶とリリスの間で彷徨わせ、やっと、意を決したのか、それに口をつけた。
初めて口にするアールグレイは、独特の味ながら、ここに来ていつも口にする他の紅茶と同じように、淹れた者の人柄が表れているのか、とても優しい味がした。

「・・・・ハーブというのは、薬草の一種だな・・?」
「はい。あ、でも、カモミールには、アデルさんが考えているような強い効能はありません。」
「何故、俺がそう考えていると思う・・・。」
「眉間にシワが寄っています。」
怪しむように尋ねるアデルに、リリスは穏やかに対応しながら、自分の額を軽く指す。
アデルは気を静めるように、また一つ、ゆっくりと息を吐き、無意識に入ってしまった額の力を緩めた。

「『魔法のハーブティーを飲ませた恐ろしい魔女の目的は、その青年と一緒に美味しいアップルパイを食べることだったのです。』・・・・あまり面白い結末には、なりませんでしたね。」
リリスは、何故か少しばかり残念そうな様子で、アップルパイの端をフォークの先で小さく切り取り、口にした。アデルもそれに続くように、アップルパイを口へと運ぶ。つい先日街で買われていたあの丸くて赤い果実が、今では、こんなにしんなりパリッとした飴色の食べ物になっているなんて、料理のことに関しては、赤子同然の知識しか持ち合わせないアデルには、思いもよらないことだ。
(これも、魔法と言えば魔法みたいなものか・・・)
あれほど慌てた今朝の事が嘘のように凪いだ、・・・そして、半ば投げやりな気持ちで、そんなことを思いながら、アデルは目の前に広がる美しいコバルトブルーを見つめた。

本日は天候も良く、海からの風も優しい速度で海面を揺らしている。
耳へ届くさざ波の音色は、母の揺する揺り籠の様に一定の間隔を保っており、その心地良さは眠気を誘った。


「・・・アデルさんは、どうしてここへ来たんですか?」


隣りを見ると、リリスは真っ直ぐ海を見つめたままの姿勢で、膝の上の小皿にフォークを置いていた。不意にリリスから放たれた質問があまりに唐突過ぎて、アデルは、すぐにその答えを返すことが出来なかった。
初めて彼女と会った時、確かに自分は、仕事でこの街に用があって来ていると答えたはずだ。まさか、自分の偽りがバレたのだろうか。ここへ来てからの己の行動を振り返れば、バレるような要素はいくらでもあったのだが(何しろ、連日彼女の元へ訪れているのだ)、心のどこかで、彼女はそれに気付かない。もしくは、気付かないでいてくれると考えていた。
言葉を継げずに一度空いてしまった間は、どうしたって不自然になる。
アデルは思いつく限りの返答を考えては頭の中で打ち消すことを繰り返し、そして、それら全てを口にすることを諦めると、同じように海の方を見つめた。

「君は、この世界をどう思う。」
「?」
問いに対して返された問いに、今度はリリスがアデルの方を向いた。アデルは振り向かずに続ける。
「この世界は、とても狭い。人は、こんな小さな世界を国という勝手な単位に切り分けて、食い合うように争い事を起こす。そのほとんどが、同じ一続きの陸地で繋がっていながらだ。そんな必要が、一体どこにあるのだろうかと、俺は度々考える。ネリネ国は、世界の中でも端の方にあって、比較的安定した治世の国だ。この小さな街に暮らす人たちにとって、他国の人間がどんな暮らしを営んでいるのかなんて、日々を生きていくためには、きっとそれほど重要なことじゃないだろう。貿易での関わりがあるとしても、それは決して、お互いを害する関係などではないし、その必要は双方に存在しないはずなんだ。」
淡々と、しかし強い意志がこもった瞳で話すアデルの言葉は、彼の中で何度も反芻され、噛み砕かれたものなのだろう。それは一つの確信を持った音で、リリスの耳へ届いた。

「一人一人が、手を取り合うことが出来るように、世界は一つになれる可能性を持っている。俺は、そう思っている。」

穏やかな潮風が、2人の間を吹き抜けていった。
さらさらと、視界の上を流れる前髪と、その向こう側のアデルの横顔を見つめ、リリスは再び、ゆっくりとその視線を海へと戻した。

「・・・私、昔・・小さい頃ですけど、『国境』がなんなのか、分からなかったんです。」
「・・・?」
「地図の上に引かれた不思議な形の黒い線が、一体何を示しているのか、幼い頃、街の学校で先生に訊いたことがありました。先生は優しく『これは、国と国の境』だと教えてくれましたが、私は、そこには山や川といった何か物理的な物があって、それを示しているのだと思っていました。・・・なかなか理解してくれない私に、いつもは優しい先生も、とても困った顔をしていたのを覚えています。」
リリスは懐かしむように目を細める。
「私は、物心ついた時にはこの街にいて、ここから外へは出たことがありません。だから、アデルさんの感じている世界の狭さや、国同士の争いの悲しさを全て理解することは出来ません。でも・・・・」
きゅっと、膝の上に置いた両の手に力が入る。紅茶色の瞳が、海の青を反射して瞬いた。
「でも、世界の本当の姿が、何の線も引かれていないまっさらなものだとしたら、それはきっと、また元通りの形に戻ることが出来るはずです。」
「・・・・。」
「私は、そう思います。」

そう口にした彼女の瞳は、遠く海の向こうを見据えていた。
地図上に引かれた目に見えない境界に囚われることなく、眼前の海原はどこまでも遥か彼方へと続いている。
アデルは、この少女が己の探している人物であったならばと考えながら、それを口に出すことはせず、黙ってアップルパイを一欠け口へと運んだ。

「・・・すみません。私が変なことを聞いたからですよね。」
「いや、俺の方こそすまない。ちゃんと返答すべきところを誤魔化すような真似をして・・・・」

言うべきだろうか。今、彼女に。ここへ来た、本当の目的を。

アデルが硬い表情で考え込んでいると、左隣りに座った少女は「ふう」と一息、晴れやかな表情でアデルの方を振り向いた。
「ここのところ、アデルさんが毎日ここへ来てくれることが嬉しくて。アデルさんは、ここでのお仕事が終わったら、帰っていってしまうんだということを考えたら、なんだか急に寂しくなってしまいました。」
「・・・・は?」
すぐに追及や非難の言葉が返ってくるものと思っていたアデルは、思いもしない彼女の言葉に、文字通り目が点になる。
「困るだろうって分かっていたんですけれど、つい・・・こんなに寂しい気持ちになるくらい、アデルさんはどうしてここへ来てくれたりするんだろうなんて、身勝手なことを考えたりしてしまって。」照れ笑いのような表情で続ける彼女の言葉に、アデルはただただ唖然とするしかない。
「久しぶりに、お茶やお菓子を振る舞う機会が出来たのに、とても残念です。」
「そ、そうか・・・。」
てっきり、こちらの嘘が見抜かれてしまったのかと思っていたアデルは、拍子抜けして、思わずフォークを取り落しそうになった。(嘘とは言っても、仕事で来ているという点では、間違ってはいないことは確かだ)遠慮がちに寂しさを滲ませるリリスを、しばらく、黙々とアップルパイと紅茶を口にしながら観察するが、アデルの行動について、それ以上特に勘ぐっているような様子はない。先程の急な質問は、本当に寂しさから出たもののようだ。
考え過ぎて逆に大きな墓穴を掘ってしまったと、己の迂闊さにつきそうになった溜め息を紅茶と一緒に飲み込んだ。
先程の質問について、リリスの方では、大して気にしている様子はない。アデルはそれ以上、新たな墓穴を掘らないためにも、口を噤むことにした。

(・・・・仕事が終わったら、帰る。そうだ。そろそろこの任務も、この辺りで見切りをつけなければ。)

任務のタイムリミットは、確実に近づいてきていた。


To be continued....