『Garden』
第一章:魔女の岬に住む少女


―5―

コンコン。

呼び鈴など取り付けられていない扉には、もう何度も繰り返し叩かれたのであろう。白く削れて凹んでいる部分がある。
明らかに古さを感じる家の造りから、アデルは慎重に、できるだけ優しく、拳の裏を打ち付けた。

コンコン。

返事はない。

「・・・リリス?」

声を掛けてみるが、その呼びかけにも返ってくる声はなかった。
ここ数日ではなかったことに戸惑い、アデルはしばし、その場で動きを止める。

任務のため、この魔女の岬に通っていて、リリスが家を空けていたのは、初めてだった。いや、最初の出会いを考えると、あれは丁度留守にしていた時だったのだから、初めてでもないのかもしれないが。
昨日も、買い物やレースの納品に街へ出掛けていたことを考えると、彼女の行動範囲は、どうやらアデルが思っているよりも広いようだ。

周囲を見回し、庭の草木の影に隠れているのでもないことを確認すると、つと、視線を家の対面へと向けた。そこには、強い存在感を放つ黒々とした森がある。

(森か・・・?)

出会って2日目、ここで庭の手入れをしていた彼女が、薬草を採るために森の中へ入ることもあるのだと言っていたことを思い出した。芋づる式に、その時の自分が、先輩から教えを乞い、不器用な手でトマトの苗を植える新米園芸家状態だったことまで記憶の端に上ってきたが、人間、都合の悪い記憶は上手く見えなくなる傾向にある。
アデルは、その記憶の上に重石付で蓋をした。

(そういえば、出会い頭に背後から体当たりをされた時も、丁度、薬草を取りに行ったのだと言っていたな・・・)

真っ赤になりながら弁解をしていた彼女の姿も併せて思い出し、アデルはフと口元を緩める。
自分のことは完全に棚上げにする姿勢だったが、今この場に、そんな彼を諌めるような者はいない。つい緩んでしまった口元を引き締め、誰が見ているというわけでもないが、「こほんっ」と一つ小さな咳をして、大きく脱線しかけた思考を目の前の森へと戻した。


初めてここへ来た時以来、アデルはあの鬱蒼とした森の中へは足を踏み入れていない。
その理由としては、あそこを通る道が、リリスの住むこの魔女の岬から街への最短ルートではないということを知ったというのもあったが、その事実にしても、アデルが自ら森を通る以外の道程を尋ねたことで知れたことである。
やはり何よりも大きな理由は、初めてあの場所を通ってきた時に感じた、なんとも言い表し難い薄気味悪さと不安に駆られる程の緑の濃さに、彼自身、出来ることならと再び入ることを避けてきたからにほかならない。

しかし、この場所へ来たことも、家の主がいない状態では全く意味をなさないわけで。
アデルは逡巡した後、ゆっくりと、その足を森の中へと向けた。






ザッザッザッ・・・――――――

道とも言えないような獣道を行く。
来た時も思ったが、ここは本当に人が行くための道なのだろうか。心細くなるほど細く、薄い地面が覗くその道筋は、踏みならされているといった感触が、あまりにも乏しい。ここを歩く者の少なさを如実に表しているようだ。
普段、リリスが薬草を採りに入っているといっても、身体の小さな少女が一人。彼女の小さな足と軽い体重を思えば、当然と言えば当然である。

しばらく、道とは思えぬ道を進み、アデルは進む先の出口から入る日の光に目を留めると、それと同時に、その歩みも止めた。
歩いてきた道に、リリスの姿はなかった。

(この道筋ではなく、もっと奥の・・・・)

辛うじて道として認識できる足下の薄い地面から外れた、道標のない森の奥深く。そちらへ目を向けると、自然と身体に力が入るのが分かる。
自分の立っている場所でさえ、上を見上げても空模様一つ分からないのだ。この道から外れて、奥へと進もうものなら、再び元の場所へ戻ってこられるのかも怪しい。

足を進めようとして、アデルはいつの間にか自分が息を止めていたことに気づく。
「はっ、・・っつ//」
何か魔物でも潜んでいそうな森の雰囲気に、緊張しているのだろうか。知らず、息まで詰めていたようで、胸を抑え、大きく一度深呼吸をする。

(俺は、何を怯んでいるんだ・・軍人が、こんなことでどうする・・・!)

初めてここを通った時よりも遥かに大きな、胸に渦巻く不安感。今朝も夢見が悪く、寝不足が続いている所為だろうか。その嫌な感覚に苛まれながら、アデルは一度目を閉じ、そして再び開けると森の奥を見据えた。

行くと決めた。そこには、リリスを探すという名目以前に、少女が一人、平気で入っていけるところに、自分が入っていけぬはずはないという、小さな意地もあった。





ザッザザッザッ・・・・―――――――――

「はっ、はぁっ・・・///」

道なき道が続く。最初の道を外れてから、もう道と呼べるようなものはどこにも見当たらず、それどころか、辺り一面、どこも同じ風景に見える。
見た目通り、あまり人が踏み入らない場所だからだろう。誰に遠慮することなく、森の木々たちはその枝葉を大きく広げ、よく言えば伸び伸びと。悪く言えば、傍若無人に成長しており、まるで意思を持ってアデルの行く手を阻むかの如く、次々と目の前に立ちはだかった。
それらを一つ一つ、両の手で避けながら姿勢低く進んでいく。

知らない土地で、どんな生態系なのかも分からない、深い森。ゆっくりと、慎重に・・・頭ではそう思っているはずなのに、気がつくとアデルの足は、彼の意思とは別のところで、勝手に前へと出ていた。いつの間にか、心なしか早足になっていく。

ザッザッザッザッ・・・―――――――――

ズルッ・・・!!
「くっ・・!!//」
木肌を侵食するように群生した苔に、足を滑らせて転びそうになる度、何度も踏ん張って体制を立て直し、半ば無理矢理に次の足を前に出した。
何故?と、アデルは自分の中で問いかける。何故自分は今、こんな森の中をこのように我武者羅に突き進んでいるのか。
急ぐ必要はない。焦る必要もない。ただ、そう自分はただ、人を探して・・・。

(このままでは、戻る道を見失ってしまうのでは・・・)

随分と奥に入り込んできてしまってから、ハッとして振り返ると、確かに自分はそこを進んできたはずなのにも関わらず、もうそこに道はなかった。
静かな、ただひたすら静かな緑に覆われている。


ドクンッ・・・!!


不意に、アデルの心臓が大きく跳ねた。

風も吹いていないのに、ガサリと、葉擦れの音がしたような気がして、今は所持していないと知っていながら、腰の剣に手をかけようとしていた。
腰に伸ばした手が空を切ると、拳銃だけは懐にあったはずだと、護身用程度に持ち歩いている銃を探して、不自然に手が彷徨う。


『げて・・っ!!』
「!?」


声が聞こえたような気がして、その方向に素早く目を向けるが、当然のように、そこには何もない。
自分が息を潜めている所為か、森があまりにも静か過ぎて、アデルの耳には、己の速くなる鼓動の音が鮮明に聴こえていた。
(幻聴だ。ここには、他に誰も・・・・・)


『逃げて・・っ!!!』
「っつ・・・!!?///」




『逃げなさいっ!!アデル・・っ!!!!』




気が付けば、走り出していた。

「っは・・っ/////」

頬が燃えるように熱い。炎が、火の手がすぐそこまで迫ってきているのだ。
残してきた村の人々の悲鳴が聴こえる。形のないはずのそれは、身体の自由を奪う枷のように身体中にまとわりついて、この身を重くさせる。
村を襲った人間たちの声が聴こえた。

『これで、全部か・・っ!?』
『もっとよく探せ!!』
『他に生き延びている奴がいるかもしれないぞ!!』

殺される。そう思った。
見つかったら、間違いなく殺される。

炎に包まれ、焼け落ちる木々の悲鳴に紛れて、自分の足音が聞こえないようにと、ただそれだけを必死に心の中で祈りながら、アデルは暗い森を駆け抜けた。
殺される。その恐怖に、後ろを振り向くことは出来なかった。

夢見の悪さの所為だろうか。ここ2日程連続している悪夢が現実と混同されているのが分かっていながら、アデルの足は止まらない。

ザッザッザッザッザッ・・・―――――――――!!

(!?あそこは・・・っ!)

突然、目の前に光が見えた。
この濃く、暗い森の奥へと足を進めてから、初めて目にする光に、アデルは何も考えず、飛び込んでいく。



ザザッ!!・・・―――――――――

「っ・・・・!!?」



そこは、丸く開けた場所になっていた。
地面には青々とした芝生が控えめに生え揃い、今まで日を奪い合っていた木々が、まるで、そこだけをそっと避けるようにしていて、太陽が地上に日の光を注ぐがままになっている。

その中央に、降り注ぐ光を受けて、肌触りの良い絹のように揺れる切り揃えられた紅茶色の髪。褪せた赤紫色のワンピースは、昨日まで見ていたものと同じで、その裾が流れる風に任せてゆったりと揺れる。
彼女の足元には、昨日も目にしたワンハンドルのバスケットが置かれており、その中には、今し方摘んできたのであろう、様々な種類の薬草が詰め込まれていた。

リリスは、太陽を見上げた姿で佇んでいる。瞳は閉じられ、長く生えそろった睫毛の一つ一つまでが、幻想的な輝きを帯びていた。このままずっと動き出すことはないのではとさえ思える。魂を封じ込めて時を止めてしまった人形のようだ。
人の時を奪い、そこへ留めたらこのような姿になるのではないだろうか。

アデルは、追いかけられていた過去の悪夢も忘れて、その姿に見入る。
今まで自分が通ってきた所とは違う。その場所だけが、本当に時が止まってしまったかのように穏やかで、先程までの自分が嘘のように、足が一歩も動かない。


『あの子はね、森の子供なのよ。』
特別な内緒話を聞かせるようにそう語っていた、優しい老婆の顔を思い出していた。


そうして、しばらくの間、声も掛けられずに立ち竦んでいると、スッと、なんの前触れもなく、リリスのヘーゼル型の瞳がアデルの方を向いた。


「あれ?アデルさん?」


キョトンという形容詞をそのまま当て嵌めたような表情で、リリスはただそこに立つアデルを見る。

アデルは、そこで初めて言葉というものを思い出したように、慌てて口を開くが、咄嗟になんと言っていいのか分からず、その喉からは「あ・・・」と小さな、声とも言えない音が発せられたのみだった。
彼女を探して、森の中に入ったのだと、ただそう伝えればいいはずなのに、まだどこかで、先程まで見ていた悪夢と現実の境界が崩れてしまったような白昼夢を引きずっているのか。胸を締め付けるような恐怖と、そこからの急激な緩和に身体がついてきていなかった。

しかし、そんな彼を気にすることなく、リリスは、森の中で出会えた偶然が嬉しいのか、笑顔で彼のもとへと歩み寄ってくる。

「アデルさんも、一緒に日光浴しませんか?ここは、私のお気に入りの場所なんです。」

サクサクと軽やかな草の音と共に、呑気な空気を纏って近づいてくるリリスに、アデルは一気に身体中の力が抜ける感覚を味わった。

「にっこう・・よく・・・?」
「はい。ここは、森の中でも不思議な場所で、この暗い森の中で、何故かここだけは、こうして陽の光が差し込んでいるんです。静かで、優しい風が吹き抜けるこの場所は、森へ来た時には恰好の休憩場所で・・・・って、アデルさん?な、なんで笑っているんですか?;;」
「っく・・・ふふっ・・////」

気が付けば、自然と頬が緩み、アデルは声を上げて笑っていた。
リリスは、何故笑われているのか飲み込めないまま、不思議そうにアデルの顔を覗き見ている。
「いや、すまないっ・・ふっ・・//君が、あまりにもいつも通りで・・はははっ///」
「?いえ、それは別に構わないのですが・・・・そういえば、どうしてアデルさんはこんなところに・・?」

そう言いながら、すぐ手の届く所にまで近づいてきていたリリスは、アデルの頬を流れる汗に目を留めた。自然な動作で手を前に差し出すと、スッと、その一筋を服の袖で拭い取る。
そのままじっと顔を見つめられて、アデルは慌てて、笑ったために前屈みになっていた姿勢を正した。リリスに見られていたわけではないと分かっていながら、森の中を必死に駆けていた時の醜態を見透かされたような気分になって、誤魔化すように、自らの服の袖で乱暴に汗を拭う。

「これは、その、この森があまりにも深くて、少々焦ってしまって・・だな・・・・」

しかし、そんな言い訳を聞いているのか、アデルが少し目を逸した隙に、いつの間にかリリスは目の前から消えており、慌ててその姿を目で追えば、元いた場所に置き忘れていたバスケットを取りに行く背中が見えた。バスケットを手にすると、駆け足でアデルの傍へ戻ってくる。

「アデルさん!今日は、ハーブティーにしましょう!」

あまりにも唐突な提案に、アデルはぱちくりと音が鳴るような瞬きを返した。
「お庭のカモミールは、昨日収穫したばかりなのでまだ飲めませんが、昨年収穫したものがまだ残っているので、そちらを使ってカモミールティーにしましょう。」
そういえば、以前、カモミールだかなんだかと言われていたような気がするが、その辺りのことにあまり詳しくはないアデルは、また何を言いだしたのかと、目を白黒させるしかない。突如変わった話の方向性についていけず、よく分からないまま、気が付けば曖昧な頷きを返していた。
「あ、あぁ・・・?;」
「さぁ、行きましょう!今日は珍しい種類の薬草も沢山採れたので、早いうちに煎じてしまわないといけないんです!」
リリスはそう宣言すると、いつの間にやらアデルの手を取り、今まさにアデルがやって来た魔女の岬の方向へと、その手を引きながら戻っていた。
何故かは分からないが、やたらと気合い十分なように見える。
もしかすると、これは・・・・・

(気を・・遣われたのだろうか・・・・)

ここ最近の夢見が悪くて出来た目の下の隈を見咎められたのか、はたまた、先ほどの白昼夢の所為で少々血色の悪くなった顔色に気がついたのか。

(どちらにしろ、こんな少女に気を遣われるようでは、情けないな・・・・)

そう思ったが、森の中で酷く取り乱していた先程までの己の姿を思い出し、アデルは自分の手を引く少女の小さくとも力強い掌の温もりを、今は素直に受け入れることにした。
迷いなく森の中を突き進むその足取りのためか、リリスの小さな背が、なんだか急に心強い。

つい先程まで、日の光一つ感じることもなく、ただ暗くジメジメとしていたように思えた森の中も、こうしてゆっくりと歩きながら見渡してみれば、なんということはないただの森だ。所々に木漏れ日を感じる場所もあり、梢の合間に聴こえる小鳥たちの鳴き声が、静謐な音楽となって耳に届く。

「そうだ!昨日の帰り道で、教会のシスターから、フィナンシェを頂いたんです!」
是非、カモミールティーと一緒に食べましょう。と楽しそうに話をするリリスに、「フィナ・・?」と聞いたこともない食べ物の名に戸惑いながら、アデルはその後について歩いた。

草木を踏みしめる足音も、先程までとは打って変わって、どこか優しく。
同じはずの森の帰り道は、不思議と、もう恐ろしいなどと感じることはなかった。


To be continued....