『Garden』
第一章:魔女の岬に住む少女


―4―

「逃げなさいっ!」

燃え盛る劫火の中、髪の長い女は少年の背を押した。
少年は小さな身体を必死に捩りながら、女の手を逃れようとする。抗えない力に押され、炎で赤く染まった木造の家の木戸から、ころりとその小さな身体は転がり出た。まるで打ち捨てられたかのように地面の上に投げ出され、それでも尚、少年は女の方に向き直る。

「いやだよ!いきたくないよ!!」

その言葉は、激しく爆ぜる木の音と周囲の喧騒の中に掻き消えそうだった。
立ち上がって再び女のもとへ駆け寄ろうとする少年を、女は強い言葉で遮る。
「だめっ!!・・・来ては、だめ・・っ・・・//!」
眉を寄せ、酷く歪んだ口元は、気を抜けば漏れそうになる嗚咽を堪えて小刻みに震えていた。瞳の端からはぼろぼろと涙が流れ落ち、それでも女は強い眼差しで言う。

「あなただけでも、逃げて、生き延びて・・っ//・・・・・アデル・・。」




「!!」

あまりの息苦しさに、アデルは思わず己の左胸を押さえた。
心臓が激しく脈打って、大きく見開いた両目に映る白とこげ茶色が、自分の宿泊先の宿の天井とその梁の色であることを脳が理解するまでにかなりの時間を要した。
「・・・っはぁ・・//」
アデルは前髪を掻き上げながら、横たわっていたベッドから上半身を起こす。触れた前髪は汗を吸って、ぺったりとした感触が指先に伝わった。見開かれていた瞳を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。肺の中を荒れるように行き来していた空気が、穏やかに腹の方にまで落ちてくる感覚を確かめると、閉じていた瞳を開いた。

「・・はぁ・・・・。」
呼吸は正常。心拍数も通常値。
もう何度見たかも分からない夢に、一体自分はいつまでこの夢に捕らわれているのだろうかと、深い溜め息が喉の奥から漏れた。
(・・・久々に、見たな・・。)
それでも、ここ最近は落ち着いていたはずだった。
それが今になってぶり返してくるなど、この世界の雲行き怪しい未来を思わせるようで、なんとも縁起が悪い。それとも、慣れない土地に滞在しているからだろうか。そうであると思った方が、幾分か気持ちが軽くなる。そう考えてから、アデルはベッド上から床の上へと足を降ろした。


ネリネ国の田舎町、ラントに来てから3日目の朝。
それ程観光で栄えているわけでもないこの町には、アデルが泊まっている宿以外に宿はない。その宿というのも、果たして正確に宿と呼んでいいものか迷うくらいアットホームなもので、民宿や旅館というより下宿先のような所だ。
木と粘土で出来た木組みの家がこの町の民家の基本的な形らしく、2階建てのそれは、個人所有の一軒家とするならば大きい方だが、宿とするには大分規模が小さかった。
客人のために用意されている部屋はたったの4部屋。うち一つは、あまりにも旅行客が来ない所為か家主の一人息子が自室に使っている。そして、正確に客と呼べる人間は今のところアデル一人だけだ。
よく潰れないものだと驚いたが、ここの奥さんの話だと、他に宿がないために旅行客は必ずこの宿に来てくれるし、少ないとは言っても、どこか一部屋は常に埋まっているのだとか。あとは、一人息子が宿の経営を手伝う傍ら、自家製パンの販売をしていて、その収入で十分暮らしていけるのだという。
ちなみに、奥さんと息子さんの二人暮らしだそうだ。

この宿の内情について、見ず知らずのアデルが無駄に詳しくなってしまったのも、ここがあまりにもアットホームな所為だろう。
奥さんは優しく気さくな人で、宿の中で顔を合わせる度に何かしらアデルに話し掛けてくれる。1階の食堂では家主も一緒に食事を摂ることがあり、話さないわけにはいかない。
息子はどちらかと言えば無口な方だが、奥さんと話をしていれば自然と会話に加わることも多く、気がつけば話が弾んでいたりすることもあった。
任務に赴いた先で、こんなに親しい人間を作るのも如何なものかと思ったが、寝食を共にする人間に全く関わらないでいられるほど、アデルは冷たい人間でもないのだ。

そして本日も、朝から少し話し過ぎてしまったと心の中で反省しつつ、笑顔で見送ってくれる奥さんの声を背にアデルは任務へと向かう。
任務とは言っても、もちろん服装はごく普通の普段着で、だからその所為もあってか最近は気が抜けているなとも思うのだが。
アデルは今朝の夢を思い出して、小さく首を振った。
もうあんなことが起こらないためにも、自分はこの任務を成功させなければいけない。
自然と、アデルの足取りは速くなった。



「あ、アデルさん!」

岬へ向かう道の途中で、突然頭上から声が掛かった。
岬は街よりも地形的に高い位置にあり、丘を一つ登ったところにある。その丘陵地の途中で、自分の行く手である丘の上の方から誰かがアデルの名を呼んだのだ。
聞き覚えのある声に顔を上げると、丘の上からワンハンドルのバスケットを腕に掛けた姿のリリスが、嬉しそうに大きく手を振っていた。
アデルは呼ばれた声に応えようとして口を開けたが、次の瞬間、開けた口から出てきたのは全く別の言葉だった。

「は、走るな!危ないっ!!;」

リリスは振っていた手を下げると、バスケットを片手に丘を駆け下りてくる。
アデルは嫌な予感に、気づけば足を前後に軽く開き丘陵地の地面をしっかりと力を込めて踏みしめていた。ここはなだらかではあるが坂だ。そして彼女は坂の上、自分は下にいる。
駆け出した初めのうちは笑顔のままだったリリスの表情が、開いていた二人の間の距離が最初の半分にまで縮まった頃には、焦った表情に変わっていた。
当たってしまった予感に、内心で溜め息を吐きながらも、アデルは受け止める体勢をとる。

「わわわ、アデルさん!足が止まりません;;」

そりゃ、止まらないだろう。坂を下っているのだから。
前回のように、再び肉弾大玉転がしなどという目に遭う気はさらさらない。流石に二度目だ。今回ばかりは、軍人らしくしっかりしたところを見せてもいいだろう。
「危ないですから、退いて下さい!;;」と叫ぶリリスには構わず、アデルは道のど真ん中に立ったまま動かなかった。
腕を前に翳して、丁度リリスの肩口辺りが掴めるようにすると、落ち着いて、後はリリスの体重が予想以上に重くないことだけを祈る。

「わわわわわ、はぶしっ・・!!」
「ぐぅっ・・;」

腕がリリスの肩に触れると同時に、彼女の重さを受け止めるようにその腕を曲げてクッションにする。予定ではギリギリ自分の身体の手前で止めるつもりだったのだが、あまりの勢いに受け止めきれず、彼女の顔がそれは見事に、アデルの胸の辺りにドスリと鈍く突き当たった。
鼻の頭を手で押さえながら、リリスは顔を上げる。

「・・・あ、ありがとうございまふ;;」
「げほっ、ごほっ・・・・・どうやら君は、頭突きが得意なようだな・・・。」

胸の辺りに手を置き、アデルは咽せかえりながらそう返した。
前回の鳩尾クリーンヒットに加えて、今回の胸部強打。彼女に限ってそんなことはないと思いたいが、わざとやっているのではないかと思わざるをえない妙技だ。少なくとも、石頭であることは、この2回で分かった。
リリスは「大丈夫ですか?;」と心配そうにアデルの顔を覗き込んでくる。まさか、自分の頭が今正に彼の中で凶器認定されていようなんてことは、思いつきもしないのだろう。それを制して、アデルは呼吸を整えると、改めて彼女の手にしているバスケットに目をやった。

「・・どこかに出掛けるのか?」
「はい!これから、町へ買い物に行くんです。」
そうか、買い物に行くのかと頭では納得しつつ、アデルは内心動揺していた。
任務的には、ここは彼女に付いて行くのがベストな選択肢なのだが、そうすると自分が今来た道を再び戻ることになってしまう。戻ることについては、それ程問題ではない。しかし、わざわざそうしてまでこの目の前の少女の後にくっついて行くというのは、それはそれでおかしいのではないかとも思うのだ。
可愛く言えばカルガモの親子だが、悪く言えば金魚のフン状態だ。
だからと言って、彼女がいない魔女の岬へ行くのも意味がない。
なんとも切り出し辛そうに顔を顰めているアデルに、リリスは丘の上から手を振っていた時と寸分も違わない笑顔でさらりと言ってのけた。

「アデルさんも、一緒に買い物に行きませんか。」



ラントは小さい町だ。
この地域は土地の殆どが森に覆われていて、民家や商店がある人の住んでいる所は一部の開けた場所に限られる。しかし、海に面しているため漁業が盛んで、住宅の密集している部分から少し離れた所には牧場も広がっているので、食べるものやお金に困るようなこともない。隣り町とも容易に行き来ができ、そこでの交流で物の流通も意外と盛んだ。

岬から町へは、森を通らずとも丘を下って一直線で行くことが出来る。
丘の上は草原になっており、見当たる所に道はないのだが、丘を下っていく途中から町へと伸びる草の生えていない道が現れるのだ。
その道を二人で並んで下っていきながら、リリスはふと気がついたようにアデルの方へ顔を向けた。
「そういえば、アデルさんにはお仕事があるんじゃないですか?もしかして私、迷惑だったんじゃ・・・;;」
そういうことは、普通誘う前に聞くものなのではないかと思ったが、仕事について詳しく話していなかった自分にも非があるといえばあるので、そこにはあまり深く突っ込まずにアデルは返した。
「いや、そのことなら問題ない。これが、俺の仕事だ。」
言ってしまってから、あまり任務については教えられない自分の立場を思い出す。意味深なことを言ってしまったと気づき、頭上に疑問符を浮かべながらじっとアデルの顔を見つめているリリスに向かって、慌てて訂正した。
「あ、いや、えっと、その;;・・とにかく、仕事のことは気にしなくていい。・・・・き、今日は、何を買いに行くんだ?;」
アデルの目線は、あらぬ方向へと彷徨っていた。嘘を吐いたり誤魔化したりすることがそれほど苦手だと思ったことはないが、この少女の前だと何故か調子が狂う。おかげで、話題の逸らし方までおかしくなってしまった。
流石に怪しまれるかと思ったが、リリスには全く気にした様子はなく、乗り換えられた話題に意気揚々と答えを返した。素直なのはいいが、なんとも先行きの不安になる対応の仕方だ。きっと、人に騙されるなんてことは微塵も考えていないに違いない。

「今日は、野菜と果物とお魚を買いに行きます。あとは、マルグリッドさんのところにレースを届けに。」
「レース?」
「はい。マルグリッドさんは町のレース屋さんで、私はそこに商品を置かせて貰っているんです。」
レースを売ることを商売にしている店があるのか、という部分もアデルとしては驚いたのだが、何よりもこの少女が自分の力で収入を得ているということが信じられなかった。
しかし考えてみれば、ここに来てから彼女に家族がいる様子はなかったし、彼女の口から聞かされた身内の話は亡くなった祖母のことだけで、どうやらたった一人であの場所にいるらしいことは確かだ。身内が誰もいないのだから、自分の身一つで生きていかなければならないのは、当然と言えば当然である。
今まで彼女のほんわかとした空気に惑わされていたが、実は意外としっかりした子なのかもしれないと、アデルは少し考えを改めた。

丘を下り終えると、目の前に現れるのは紅葉葉楓が並んだ広場。季節柄、緑色の独特な形をした花が咲き乱れているその下を通り抜けて町の中心を通る大通りへと入る。
「!」
入ってから、アデルは不思議な感覚に陥った。先程、自分が岬ヘと向かう時にも同じようにこの道を通って来たはずなのに、町の雰囲気が変わっている。
まるで別の場所に来たようなこの違和感の正体は、どうやらアデルが丘陵地を途中まで登り、再び折り返してくるまでの僅かな間に、町の人々が活動を始めたかららしい。
立ち並ぶ店が開店の用意をし、人通りがほんの少し増えただけで、これ程までに賑やかになるものなのか。辺りを見回すアデルへ、先を歩いていたリリスが声を掛けた。

「アデルさん!こっちですよ!」

視線を呼ばれた方向へ動かせば、いつのまにかリリスは水色と白のストライプ柄のテントの下に入って手招きをしていた。店はどうやら今し方開店したばかりで、店主がまだ店先のテントを張っている最中だ。人の良さそうな笑顔の店主は、横に大きな体つきをしている。
「いらっしゃい。今日は、筍とアスパラが入ってるよ。」
「うわぁ。綺麗な緑色ですね。」
アデルはなんとも言えない表情で、同じようにテントの下に入った。店先には、向かって左側に野菜。右側には果物が、所狭しと並べられている。
こんな時、一体自分はどんな顔で待っていればいいのだろうか。居心地悪そうに佇むアデルに、店主は不審そうな目を向けた。
「あんたも、何か買ってくかい?」
「あ、いや、俺は彼女の連れで・・・。」
そうアデルが告げると同時に、店主は目を丸くする。
それを見て、「連れ」という表現がそれ程適切なものではなかったのかもしれないと、アデルは別の言葉を頭の中で検索し始めたのだが、良い表現が見つかるより前に、目の前の店主は驚きと嬉しさが入り交じったような表情になった。

「こりゃ驚いた!リリスちゃんに、こんな恋人がいたとは・・・!」

店主のその言葉に、アデルは瞬間、言葉を発することも出来ずに固まる。
恋人。
その言葉の意味するところに頭が行き着いた時には、店の店主は「そうかそうか。」と一人で勝手に納得し、アデルの姿を上から下までじっと観察しているところだった。
「ち、違いますっ;俺は、彼女の恋人とかではなくて・・;;」
「アデルさんは、私のお客様です。」
アデルの言葉の上から被せるように、リリスははっきりと店主にそう告げていた。逆に、一人で慌てていたアデルは、あまりにあっさり返した自分の目の前にいる小さな後ろ頭に驚いて、再び固まる。
リリスのその声は、慌てても照れても怒ってもいなくて、寧ろクスクスというような小さな笑いを含みながらのものだった。
「おや、そうだったのかい?私はてっきり、リリスちゃんにもとうとうそういう時が来たのかと・・・。」
「サムさんは、この前もそう言って、道を通りがかっただけのダンさんを困らせていましたよね。」
クスクス笑いでリリスに言われて、サムと呼ばれた店主は困ったように「どうだったかな・・」などと言いながら頭を掻く。どうやらこのやり取り、日常茶飯事らしい。
リリスは明るい笑顔のまま、アスパラを数本と林檎を4つ買ってその店を後にした。

道に出て歩きながらも、リリスの小さな笑いは絶えない。
「・・・何が、そんなに可笑しいんだ。」
変に慌ててしまった手前、強い態度には出られないが、流石に隣りでずっとクスクス笑いをされていたのでは気になってしまう。アデルの怪訝そうな視線に、リリスはやはり笑いを堪えるような仕草で口元に手を持ってくると、肩を振るわせながらアデルの顔を見上げた。
「すみません。あの、アデルさんがあまりにも動揺しているのが可笑しくて・・//」
「・・・・。」
そう言われてしまえば、返す言葉もない。実際、あの時のアデルがかなり動揺していたことは、隠しようのない事実だ。それを分かっているから、アデルもここで変に言い返すことはしなかった。それこそ、また笑われる種にされてしまう。
「サムさんの言うことは、気にしないで下さい。いつもあんな風なんです。」
「・・・・気にしてない。」
静かに返したつもりだったが、リリスはその返事にまた小さく肩を振るわせた。

通りを歩いていると、様々な人間がリリスに声を掛けてくる。
簡単な挨拶をしてくる者を始め、挨拶がてら天気の話や庭の様子を訊ねたりと、軽い会話を交わす者。中にはリリスと言葉を交わしながらも、半歩遅れて彼女について歩くアデルの存在を気に掛けて、チラチラと視線を投げ掛ける者もいたが、それに気がついていないのか、リリスはアデルについて何も言いはしなかった。なので、アデルもなんでもない顔をしてただ後に続く。
2件目の魚屋の前へ行くと、今度は先程の店と違い、背の高いひょろりとした体格の男が店先で二人を出迎えた。

「やぁ、リリスちゃん。今日は、季節外れの鮭が入っててね。お勧めだよ。」
リリスの方へ笑顔を向けながらそう言うと、店主は背後にいるアデルへと視線を転じた。
何者なのか問いたそうにしているその視線を受けて、アデルは有らぬ誤解を生む前に答える。
「俺は、彼女の客人だ。」
「客?」
ポカンとした表情の男は、その答えの正否を問うように再びリリスに視線を向ける。リリスはそれにクスリと笑いながら「はい。」と答え、季節外れのお勧めを二切れ買っていった。


「あ、アデルさん、少し待っていて下さい。」

彼女の本日の買い物である野菜と果物とお魚を買ったのだから、あとはマグネットだかマグダレンだかの所にレースを届ければ終わりなのではなかったか。
大通りから細い脇道へと入って少しすると、リリスは四角い小窓のついた扉を押し開けて小さな店の中に入っていく。扉の両側には大きな正方形の窓があるが、表面に凹凸がついたデザインガラスになっているため、中の様子はボンヤリとしか掴めない。外に掛かっていたプレートに描かれている絵を見てやっと、そこがどうやら本屋らしいことが分かった。プレートには、書物が開いた形で描かれている。
言われた通り店の外で暫く待っていれば、リリスはものの数分で店の中から出てきた。手には、それほど厚みのない本が握られていて、それを手にしながらリリスは心なしか浮かれたような表情をしている。

「何か、買ったのか?」
何かというか、それが本であることは間違いないのだが、いちおう気になったので訊ねると、リリスは腕の中に抱えていたその薄い冊子の表紙をアデルの前に出して見せた。
「はい!もしかしたらと思って覗いてみたのですが、新しい絵本が入っていたので、買ってしまいました!」
差し出された本の表紙には、下着姿で頭に王冠を乗せた男が、いかにも偉そうに威張っている絵が描かれている。そのイラストと本の題名を目でなぞって、アデルは首を傾げた。
「“はだかの王さま”?」
「そうです!話自体は昔からあるものですが、今日買ったのはまた別の人が絵を描いたもので・・・・・って、あれ?アデルさん、この話を知らないんですか?」
問われて、アデルは正直に頭を縦に振った。
それを見るとリリスは、「結構有名なんですけど。」と驚いたように手にしていた本とアデルの顔を交互に見る。それから少しの間本の表紙をじっと見つめていたかと思うと、にっこりと顔を上げて、アデルを見上げた。

「それじゃあ、私がお話します。」

小道を更に奥へと進みながら、リリスは「はだかの王さま」の話を始めた。
歩きながら子供向けの童話を語って聞かせるリリスに、道行く人が不審に思っているのではないかと懸念しながら、アデルは物語に耳を傾ける。
話が進んでいくうちに、気がつけばいつの間にか「それは嘘だろう。」「普通は、外に出た時に気がつくだろう。」などとアデルは物語に対して言葉を挟んだりしていた。そんなアデルに対して、リリスは苦笑しながら「そういう話なんです。」と返す。


リリスが物語を語り終わる頃には、次の目的地であるレースの店に着いていた。
店は今まで見てきた他のものと比べると随分小さな家屋で、右側を大きな窓が占めており、その窓の下には植木鉢などがおける花台がついている。端の方に小さなプランターが一つだけ置いてあった。しかし、一番目を引くのは窓全面に掛けられた飾りレースだ。使われているガラス自体は普通の窓ガラスなのだが、店の内側からは様々な形をした大小沢山のレースが飾り付けられていた。その隙間から中の様子を覗き見れば、同じように店内全体がレースに囲まれているようだった。
左側にある上部が丸みを帯びた扉にリリスが手を掛けて押し開くと、カランカランと乾いたベルの音が鳴り響く。開いた扉の隙間からふんわりと香るのは、ラベンダーの香り。

「マルグリッドさん!」

リリスが入っていくのに続いて戸を潜ると、店内に充満していた芳香が一気に鼻の奥に入り込んできて、その匂いに、アデルは一瞬顔を顰めた。慣れない強い匂いは、どんなに良い香りだとしてもきつく感じるものだ。
香りの方に気を取られていたアデルは、先に店の奥へと入っていったリリスの背中を追ってゆっくりと視線を動かした。それが彼女の背中に到達するのとほぼ同時に、彼女が先程発した呼び掛けへの返答が耳に届く。

「いらっしゃい、リリスちゃん。あら、今日は誰か一緒なの?」

絹糸をゆっくりと引き絞るような柔和な声色。
その声だけで、相手が老齢の女性であることが分かる。しかしアデルが気になったのは、そこではなかった。
(この声は、どこかで・・・・?)
細い記憶の糸を辿りながら、リリスの背中の先にある人物の顔へと視線を動かしていく。そしてその姿を両目が捉えた瞬間、アデルは思わず「あ・・。」と声を漏らしていた。

「あら、あなたは確か・・・・。」

レースまみれの店の中に置かれた明るい色合いのロッキングチェアに深く腰掛け、手元に編みかけのレースを持ってこちらを見ているその老婆は、紛れもなく、アデルがラントへ向かう乗合馬車の中で乗り合わせたあの老婆だった。小さく開かれたアデルの口は、何と言っていいものかと上手い言葉も見つけられずに上下に揺れる。そんなアデルと、「まぁまぁ。」と言いながら驚いている様子のマルグリッドとの間で、リリスは不思議そうに二人の顔を見つめた。

「あなた、リリスちゃんの知り合いだったのね。」
「いや、えっと・・・あの・・・・;;」
慌てるアデルの口から何かしらの言葉と呼べるものが出てくる前に、リリスがマルグリッドの方を向いて訊ねる。
「お二人は、お知り合いなんですか?」
「えぇ。ついこの間、馬車でご一緒したのよ。その時に、彼のお祖父さんのお話を伺って・・・。そういえば、お祖父さんの知人の方にはお会いになれたのかしら?」
すっかりあの時の話を信じ込んでいるらしく、老婆は心配そうな顔でアデルを見た。リリスは「お祖父さん?知人?」と首を傾げている。

「あの、アデルさんはお仕事でこちらに・・・・ふぐっ!?」
「えぇ、まぁ、色々とありまして;;;」
尋常ではないスピードで素早くリリスの口を手で塞ぐと、アデルは早口にそう答えた。
マルグリッドは、「何か問題が?」とこれまた真摯に訊ねてくる。
「えっと、それがですね・・・;;」
「ふぁへふふぁんっ?」
自分のすぐ下では、リリスがいきなりのことにどうしたのかと目を瞬かせながら、アデルを見上げていた。
リリスに話を聞かれてしまうこの状況で、一体なんと言って切り返そうかと思案していたアデルの背後から、突如カランカランと扉についていたベルの音が鳴る。

「こんにちはぁ!」
「!あら、いらっしゃい。」

店の扉を開けて中に入ってきたのは、小さな女の子。年は恐らく、5歳前後だ。
それ程長くはない髪をきゅっと小さく二つに結んでいるその少女は、何かを買いに来たという風でもなく、マルグリッドの反応からするとどうやらここの常連らしい。
少女は、入ってすぐに目に入った見慣れない男の姿に驚いたようだったが、すぐに一緒にいるリリスの姿を見つけると、一気に表情を明るくした。
「あ、おねえちゃん!」
「!エミリーちゃん!」
いつの間にか緩んでいたらしいアデルの手を逃れて、リリスは少女のもとへと駆け寄る。少女は嬉しそうに、目線を合わせてしゃがみ込んだリリスの胸へと飛び込んだ。
そこまでの一連の流れをアデルは思わずポカンとしたまま見つめていて、そんなアデルに背後からマルグリッドの声が掛かる。

「あの子は、よくここに遊びに来るのよ。それで、リリスちゃんとも仲良くなってね。」
「はぁ・・・。」
なんと返答していいから分からず曖昧に頷けば、マルグリッドはじっとアデルの顔を見つめていた。その視線が、暗に先程の話の続きを促しているらしいことを悟ると、アデルは内心大きな溜め息を吐きながら、リリスが聞いていない今のうちなら大丈夫だろうと、重い口を開く。今こそ、祖父思いの優しい青年になりきる時だ。

「実は・・その知人からの古い手紙の住所を頼りに、あの時あなたから教えて頂いた魔女の岬へと行ったのですが、残念なことに、もう、その知人の方もお亡くなりになっていて・・・。今では、あそこに住んでいるのは彼女だけだということが分かったんです。」
アデルは、あの時と同じように寂しげな微笑を浮かべてみせる。
リリスの祖母が亡くなっているのは、恐らくこの町の人間ならば知り得ている事実であるし、祖父の古い知人ならば、当然同じように歳をとっているだろう。これはかなり信憑性が高い嘘のはず。不謹慎ながら、彼女に祖母がいたこととその祖母が亡くなって今はいないことを、アデルは心の奥底で感謝した。当事者がいなくなっていた方が、この嘘がバレる心配がなくなる。
「まぁ!それじゃあ、あなたのお祖父さんの古い知人というのは、リリスちゃんのお祖母さんのことだったのね。」
驚いて口元に手を当てているマルグリッドに、アデルは「そういうことになりますね。」と答えながら、そうだったらびっくりだと心の中で考えていた。
ふと視線をリリスの方に向ければ、いつの間にか先程買っていた絵本を少女に読み聞かせている。店の隅に置いてあった丸い座面の小さな椅子に腰を降ろし、膝の上に少女を乗せていた。優しく語り聞かせるように絵本の文面を読み上げるリリスの腕の中で、少女は瞳を輝かせながらじっと絵本の世界を見つめている。

「あの子はね、孤児院で暮らしているのよ。」
「え・・・?」
突然掛けられた声に驚いて、アデルはマルグリッドを振り返った。彼女は優しい聖母のような表情を浮かべてリリスたちのことを見つめている。
「戦争孤児でね。この国は基本的には争いを好まない国だから、平和な国ではあるのだけれど、戦争ってものは片方の国だけがしたくないからって止められるものじゃないでしょう。・・・3年程前に起こった隣国との小さな争いで、エミリーちゃんの両親はどちらも亡くなってしまったの。まぁ、そうは言ってもあの子はその当時1、2歳だったから、両親の顔を思えていないかもしれないけれど。それでも、孤児院にずっといるのが嫌なのか、こうやってお店に遊びにくるのよ。」
「・・・・。」
マルグリッドの表情はそう語りながらも温かく、向けられた瞳はとても穏やかな色をしていた。頬を紅潮させながら物語に聞き入るエミリーは、その姿を見ているだけで、リリスのことを実の姉のように慕っているということが分かる。家族のいないリリスもまた、その少女を実の妹のように可愛がっているのだろう。

「あの・・・リリスの両親も、戦争で・・?」
聞いてはいけない質問かもしれないと思いながら、アデルは恐る恐るマルグリッドに訊ねた。マルグリッドは一度大きく目を見開いて、それから破顔すると、穏やかな表情で息を吐く。
「さぁ・・・どうなのかしらねぇ・・。」
「え、どうって・・・;;」
「あの子はね、森の子供なのよ。」
フフフと口元を緩ませて、マルグリッドは内緒話でも聞かせるように語った。
「リリスちゃんは、森の中で見つけられたの。森の中で一番古い大木の根本でね、生まれたばかりの赤ん坊が薄布一枚にくるまれて泣きじゃくっていたのを、ブラウンさんが見つけてきたのよ。」
ブラウンとは、リリスの名字だったはずだ。とすると、恐らくそのブラウンさんというのは、彼女が祖母だと語っていた人物のことなのだろう。
「彼女の身に纏っていた布には、刺繍で“Lillith”とだけ刻まれていたそうよ。それで拾ってきたブラウンさんが“この子は森の子だ”って言ってね。刺繍に刻まれていた文字をそのままあの子の名前にして、自分の子供として育てたのよ。」
「そう、なんですか・・・。」
いくら森の中で見つかったからといっても、名前の刺繍まで施された布でくるまれていたのなら、それはやはり彼女の母親か誰かが彼女をそこへ置いていったと考えるのが自然だろう。それが、一体如何なる理由によるものだったのかは分からない。
それでも、リリスを育てたブラウンという女性には、きっとそんなことは些細な問題だったに違いなかった。現にリリスが祖母を語る時の表情は、いつだって幸せそうだ。リリスが“祖母”と表すところをみると、自分の子供として育てるにはあまりに歳を取り過ぎていたため、自身を祖母だと彼女に教えていたのかもしれない。

「それにね・・・」

マルグリッドは楽しそうに微笑んで、内緒話の続きを話した。
「彼女の家族は、亡くなってなんかいないのよ。」
「え?」
驚くアデルの顔を見ながら、マルグリッドは自分の方を指さしてまたフフフと笑う。
「私も、あの子の家族なの。私だけじゃないわ。この町の人みんなが、あの子の家族。だからね、あの子に何かあると町の住人みんなが心配するのよ。・・・・ここまで来る間に、何か色々と言われたのではない?」
「!」
アデルは、この店に辿り着くまでに会った様々な人の顔を思い出して、はっとした。
アデルのことを恋人なのではないかと慌てた八百屋の主人。リリスと会話をしながら、不審そうな目でアデルを見ていた人々。そう考えると、自分一人で通った時よりも、リリスと二人で通った時の方が人の賑わいを感じたことも、もしかしたら、時間の経過だけがその原因ではないのかもしれなかった。
町の住人みんなが、リリスに温かい視線を投げかける。それを自分も感じていたのかもしれない。
アデルの表情を見て、自分の考えが的中したことを確信したのか、マルグリッドは柔らかな声を店内に響かせて笑った。




「それじゃあ、マルグリッドさん。また来週、伺いますね。」

リリスはそう言いながら、手を振って店を出て行く。マルグリッドは膝の上にエミリーを乗せてレースの続きを編みながら、穏やかに微笑んでいた。
カランカランとベルが鳴る。扉が閉まるのと同時に、リリスはアデルの顔を仰ぎ見た。
「えっと、私の用事は終わりましたけど、アデルさんはこれからどうしますか?」
「俺は・・・・」
時刻は丁度お昼時。このまま彼女について魔女の岬に行き、また昼食を一緒にすることも出来るが、今日はなんだか、これ以上彼女に付きまとうような気にもなれなかった。

「今日は、もう宿に戻ることにする。」

そう答えると、リリスは「そうですか。」と返しながら、手にしていたバスケットの中を漁った。そして、先程買っていた林檎の一つを手に取ると、それをアデルの前に差し出す。
「これ、本当はこの後アデルさんがまたうちにいらしてくれるようなら、一緒に食べようと思っていたんですけど。」
「どうぞ。」と言われて、アデルは思わずそれを受け取っていた。呆然とした顔でリリスを見る。また今日も当然のように岬に行くと思っていたのかとか、そんな簡単に毎日男を家に招くのは女性の一人暮らしとしてはどうなんだとか、色々なことが頭の中を駆け巡ったが、それらがアデルの口から言葉として出てくることはなかった。
そんなアデルを横目に、リリスは軽快なリズムでステップを踏みながら来た道を駆けていく。

「それじゃあ、アデルさん!また、明日!」

遠ざかるリリスを見送りながら、アデルは一人、手中にある林檎の重さを感じていた。これはきっと、果汁がたっぷり詰まった美味しいものに違いない。
「“また、明日”か・・・・俺は別に、遊びに来ているわけじゃないんだが・・・。」
そう呟きながら、アデルの口元は自然と緩んでいた。
あのスピードなら、きっとまた、彼女はどこかで転けるに違いない。それを想像すると、更に口元の笑みが広がる。
宿に戻ったら、奥さんに林檎を剥いて貰おう。


To be continued....