『Garden』
第一章:魔女の岬に住む少女


―2―

一瞬、それが何なのか分からなかった。

「すみません;;お怪我はありませんか?;」

回り過ぎた所為だか、思いっきり頭をぶつけた所為だか分からない視界の揺れが、徐々に戻っていく。
アデルは、自分の腹の上で心配そうに顔を覗き込んでくる相手の輪郭が、ブレなくくっきりと見えて初めて、目の前にいるのが薄茶色の得体の知れない怪物なんかではなく、一人の少女であることに気づいた。あまりの衝撃続きで、頭は未だ現状を把握しきれていない。
何故自分がこんな所で、どう見ても自分よりも歳は下であろう少女に馬乗りにされているのだろうかと、ぽかんと大きく口を開けたまま、目の前で揺れる、綺麗に切り揃えられた前髪を見つめた。

「あの、今凄い音がしたような気がしますが、どこか強くぶつけられたんじゃ・・っ;;」
「え?・・・・あ、いっ・!//」
「あぁ!う、動かないで下さい!!今、すぐに手当てしますからっ;;」

少女はアデルの腹の上から慌てて立ち上がると、背後にあった鉄門の片方を開けて、家の中へと駆けていった。
そこまでの一連の動作を目で追って、やっと、自分が極秘任務のために此処まで来たことや、丘の上で何者かに背後から襲われた(?)こと、そしてその襲ってきた人物が今家の中へ入っていった少女だったということを思い出す。

(家の中に入っていったということは・・・彼女が、この家の主なのか・・?)

それにしては、自分が思い描いていた人物と比べて随分と幼い。
魔女と聞いて、アデルが初めに想像したのは、もっと年老いた風格のある女性だった。まだ、この家に彼女以外の人間が住んでいないと決まったわけではないので、彼女がその人物であるという断定は出来ないが、もしそうだとしたら、自分の考えていた人物像から大きく外れるなと、どこか肩透かしを食らったような気分だ。


自分が先程転がり落ちてきた丘を見つめて、アデルは小さく溜め息を吐く。
それにしても、あの時丘の上で自分に見事体当たりをしてみせたのは、故意になのだろうか。軍人として、それなりの訓練を受けている身としては、まさかあんな少女が背後に近付いて来て、その上体当たりをされるまで気がつかなかったとは、不覚中の不覚だ。
なんだか唐突に、頭を抱えたくなるような気持ちになった。もちろんそれは、後頭部を強く打ち付けたためではない。
だが、と彼はもう少し違う可能性を考える。

彼女が例の魔女と呼ばれる人間だったとして、もしかしたら彼女は、自分の家に近付く不審な人物(この場合はアデルのことだ)を撃退しようとしたのかもしれない。あんな害のない少女の姿を装って、実はとんでもない力を持った人物なのだったとしたら・・・。軍人とはいえ、こちらは特殊能力など全く持ち合わせていないただの人間。その背後にそっと忍び寄ることなど、造作もないことだろう。
なにせ相手は、魔女なんて呼ばれるような相手なのだ。そう言う可能性がないとは限らない。
だがもし、仮にそうだったとして、自ら攻撃した相手と一緒に丘の上を転がり落ちる必要はあるだろうか。・・・・ない。
(いや、でもあれがもし素だとしたら、それは・・・・)
それは、ドジやおっちょこちょいで済むレベルではないのではないか。これも相手の作戦か?こちらを油断させておいて、後でじっくり若い男の生き血を・・・・。


アデルの考え事があらぬ方向へと向かい始めた頃、手当てをすると言って家の中に飛び込んでいった少女が、行きと同じく慌てた足取りで門の方へと戻ってきた。手には水で濡れた清潔そうなタオルが握られている。
彼女は、すぐにアデルの傍らにしゃがみ込むと、「打った場所はどこですか?」と尋ねてきた。その顔は真剣そのもので、今まであれこれと頭の中で考えていた疑い事が、まるで馬鹿みたいな気がしてくるほど、相手の姿勢は、それはそれは真摯なものだった。
少々呆気にとられつつ、アデルは無言で後頭部の打ち付けた部分に手を当てる。
少女は、持ってきた濡れタオルを患部に宛うと、真剣な表情のまま、更に訪ねた。

「痛みますか?」
「・・・少し。」
「出血はしていないみたいですけど・・・あの、直接触る以外で頭痛はありますか?あと、吐き気があるとか何か他に症状は?」
「いや、あとは大丈夫だと・・。」
そこまで聞くと、少女は途端に表情を崩しホッと息を吐いた。透き通った茶色の瞳が、安堵で優しく細められる。
「よかった。今のところ、こうして患部を冷やしておけば大丈夫だと思います。」
「あ、はぁ・・;」
相手の瞳があまりにも嬉しそうに自分に向けられるので、アデルは思わず少し身を引いた。
少女は患部に当てたタオルを押さえながら続ける。
「ただ、少しコブが出来てしまったみたいですね。しばらくは、触ると痛むかもしれません。」
「あの・・・;」
「あ、でも今日一日は安静ですよ?もしも何か異変があれば、丘の向こうのお医者さんの所に・・・・。」
「君っ・・;;」
「!はい?」
やっとのことで、流れるように続いていた少女の言葉を遮ることができた。目の前の少女は、わざわざ後ろを振り向いて丘の向こうを指していた指を下げると、キョトンとした表情でアデルの黒い双眼を覗く。そのあまりにも無防備な表情からは、流石に男の生き血を啜る姿は想像できなかった。

「えっと、君の名前は・・?」
「私の名前ですか?」
少女は大きな瞳を数回瞬かせると、にっこりとその両頬を綺麗に持ち上げ、花のような笑顔をみせる。

「リリス・ブラウンです。」

その笑顔と名前からも、彼女が魔女と呼ばれるような片鱗は見えなかった。





「どうぞ、そこの椅子に掛けて下さい。」

名を名乗り、この家に用があるのだと告げれば、リリスは簡単にアデルを家の中へと招き入れてくれた。
庭の中に入り、更に家まで伸びた小道を進んで行くと、目の前には小さな三段程の木の階段。それがまた、小柄な家の小さな戸口に続く。
戸から家の中に入った途端、ギシリと、軽く床が軋む音がした。その音に驚く間もなく、アデルは家の内部の様子に、また言葉もなく立ち止まった。

おとぎ話のような見た目の家は、やはり内部も古く、温かな造りをしていた。
入ってすぐ目に入るのは古い階段、上がり口がこちらを向いており、壁側ではない方にある黒塗りの鉄でできた手摺りの先が、くるりと蔓のように渦巻き型に装飾されている。その右隣り、少し奥の壁に暖炉。煤で大分黒ずんでいるが赤煉瓦造りのものだ。暖炉の上には写真立てや大きな飾り皿などが置いてある。しかし、彼の目を引いたのはその暖炉の前にあった糸車だ。
糸車で美しい姫を眠らせてしまうという、どこかで聞いたことのある魔女の物語。暖炉の前にやりかけの状態で置いてあるその姿を見ていると、あの話も強ち作り話ではないのかもしれない。

そんなことを考え、アデルがじっとその糸車と睨めっこをしていると、リリスから声が掛かった。入ってすぐ向かって右側にあった長方形の木のテーブルと四脚の椅子を見留、促されるままに手近な一脚に腰掛ける。リリスは何やら、戸棚やキッチンを慌ただしく行き来していた。
彼女の後ろ姿を見つめながら、アデルは再び考える。

褪せた赤紫色のワンピースに特に目立ったところのない白いシャツを下に重ね、またこれも代わり映えのしない膝丈より3p程短い白の靴下と黒い革靴。どう見ても、その辺にいる普通の少女だ。
油断は禁物だと思いながらも、この子が本当に魔女なのかと、ついつい怪しんで見てしまうのは致し方ない。
アデルは、後頭部に当てていた濡れタオルが温くなってきたのを感じて、静かに外した。それをテーブルの上に置きながら、後ろ姿の少女に話し掛ける。
自分は己に課せられた極秘任務のために、面倒な国境の警備を抜けて此処まで来たのだ。とにかく、任務を遂行することが先決。

「えっと、ブラウンさん。」
「あ、リリスでいいですよ。リリィと、愛称で呼んでもらっても構いません。」
パッと振り返り様にそう言われて、また、一瞬呆気にとられるが、そこはなんとか気を持ち直して言葉を続ける。
「それじゃあ・・・リリス。君は、此処に一人で?」
「はい。昔は祖母と一緒でしたが、今は祖母も他界してしまって、それ以来一人で暮らしています。」
ということは、やはり噂の魔女はこの子のことを指しているのだ。アデルは途端に、この任務の成功に対して大きな不安に駆られた。しかし、どうにかその気持ちを抑え込むと、己を奮い立たせるように心の中で念じる。
こんなところでへこたれていてどうする、アデル・ガーランド。まだ、任務失敗だと決まったわけじゃない。

「・・・そうか。じゃあ君が、“魔女”と呼ばれている人物・・だと思ってもいいのかな?」
コトンと、リリスは水を汲み入れたばかりの薬缶を焜炉の上に置いた。
一仕事終えたというように、ふぅっと小さく息を吐き、アデルの方へ振り向いて「魔女?」と小首を右へと傾げる。その腰には、いつの間に着けたのか、下に着ているワンピースよりも丈の短い前掛け型のエプロンが巻いてあり、それで軽く手の水を切りながらの台詞だ。
少し考えてから、リリスは思い出したように胸の前でぽんっと軽く手を打った。
「そういえば、私の祖母がそう呼ばれていた気がします。町の人達が、こんなことが出来るのは、うちの祖母だけだって。それで、彼女にはきっと不思議な力があるんじゃないかって言っていました。」
「こんなこと・・・・?」
「はい。・・・あ。」
そうだそうだと言いながら、リリスは戸棚から何やらお菓子の缶を取り出し始める。
話が突然途切れてしまい、焦れたアデルは、「こんなことと言うのは、なんなんだ?」と、もう一度聞き返した。リリスは再び戸棚の前で手を動かしながら、背中越しに言葉を返した。
「この岬に建っている、この家のことです。とっても素敵な庭に、とっても素敵なおうち。こんな素敵なものが作れる祖母は、きっと、素敵な力を持っているんだって。」
「・・・・。」
「今はもう祖母はいませんが、でも、みんなが素敵だって思ってくれて好きだって言ってくれたこの場所が、私も大好きだから・・・・。だから、祖母には及びませんが、今は私がこの場所を一生懸命守っているんです。」


ピーッ・・・・――――――!

焜炉の上で火に掛かっていた薬缶が、煙を上げて大きく高い音を鳴らす。
リリスは慌てて焜炉の傍へと駆け寄り、薬缶を焜炉の上から退かすと、そこからトプトプ何かにお湯を注いでいるらしい。彼女の脇から白く湯気が流れているのが見えた。
それからエプロンの結び目、リボン結びの部分を楽しそうにユラユラ揺らしながら、洒落た細工のティートレーを手に、アデルのいるテーブルまで近付いてきた。
カタンッと軽い音を立てて置かれたその上には、白くて丸い形状の陶器で出来たティーポットと野苺の絵柄の可愛らしいティーカップが同じ柄のソーサーの上に乗っている。更にもう一枚同様の柄があしらわれた、カップの乗っているものよりも一回り程サイズの大きい皿の上に、中央に赤いジャムが入れられている厚めのクッキーが二つずつ並んでいた。

リリスはそれらをアデルと自分の手前にそれぞれ置いていきながら、にこにこと嬉しそうな笑顔を向けた。

「突然だったので、お菓子とかあまりちゃんとしたものは用意できなかったのですが。」
貰い物のお菓子があってよかったです。と言いながら、トレーを手に再度キッチンの方へと戻る。
「あの、これは・・・;」
「あ、アデルさんはアッサムティーはお好きですか?いちお、そんなに癖のない紅茶のはずなんですが・・・。」
「あっさむ・・?いや、特に紅茶に好き嫌いはないが・・・。」
「そうですか。それじゃあ、甘いものが苦手でなければ、是非ミルクティーにして飲んでみて下さい。今、ミルクを温めますから。」
「・・・・・。」
なんだかすっかり相手のペースだ。
アデルは、目の前のクッキーと沸かし立てのお湯を入れたティーポットとティーカップを見つめて、自分はお茶に来たわけではないのだがと、緩く溜め息を吐いた。
(・・・何故、ティーカップにまでお湯が・・?)
普段紅茶など余り飲んだことのない彼は、茶葉の種類も知らなければ紅茶の正しい入れ方など知るはずもなく。また、飲んだと言ってもストレートで数回飲んだことがあるくらいで、ミルクティーなど一度も口を付けたことがなかった。
紅茶か珈琲かを選べと言われたら、断然後者だ。

とそこへ、リリスは温めたミルクをポットとお揃いの白い陶器で出来たクリーマーに入れて持ってきた。もう片方の手には、さらさらの粉砂糖が入った壺型のシュガーポット。
どちらも同じようにテーブル上へ置き、そしてやっと、自分も椅子の上に落ち着いた。
何がそんなに楽しいのか、にこにこ笑顔を崩さないリリスに、アデルは不審そうな目を向ける。
「・・・何を、笑っているんだ?」
「久しぶりなんです。」
「は?」
「祖母が亡くなってから、あまりお客様も来られなくなりました。なので、こうして誰かとお茶をするのも久しぶりです。」
「・・・・。」
アデルは彼女の表情に、任務に来たという自分の目的を忘れそうになる。しかし、やっと落ち着いたらしい彼女に、聞きたいことはまだあるのだ。軽く居住まいを正して、再び質問の体勢に入った。

「それで、君に聞きたいんだが、噂によると此処に住む魔女と呼ばれる人間には何か特別な力・・魔術と、言ってもいいだろう。とにかく、そういう力があるのだと聞いた。今の話だと、君のお祖母さんがそう呼ばれていたようだが、彼女には何か不思議な能力が?そして君にも・・・・その力というのは、あるのだろうか?」
「魔術・・・ですか。」
リリスはそう呟きながら、じっとアデルの顔を見つめる。アデルも真剣な顔で、リリスの言葉を待った。
「・・・そうですね。でも、たぶんアデルさんが考えているような力は持っていません。私に出来ることは、此処の庭で栽培しているハーブや薬草から簡単な薬を作ることくらいで・・・・」
「その薬を作るのに、何か特別なものを用いているとか・・。」
「いえ、特別なことは何も。何かしているというのなら、その薬が病気や怪我をした人達によく効くようにと、想いを込めて作っているということくらいでしょうか。製法も昔ながらのものですし・・あ、この場所は日当たりもいいので、薬草の育ちがいいのも良い薬が出来る要因かもしれません。」
そう言ってから、リリスは唐突に「そろそろいいですね。」とティーカップを持って席を立ち、キッチンの方へと向かう。カップに入っていたお湯を、キッチンの傍の水回りにあった草花にかけた。そして再びカップだけ持って戻ってくる。
それをソーサーの上に戻すとティーポットを傾け、それぞれのカップに澄んだ濃い紅色を注ぎ入れていく。入れ立ての紅茶は薄く湯気を立て、特有の良い香りが辺りに広がった。
アデルは初めて見る鮮やかな水色の紅茶に思わず見惚れ、紅茶とはこれほどまでに彩色鮮やかで、鼻腔の奥を擽るような香りを持っていただろうかと、いつの間にか、リリスが紅茶を注ぐ一続きの動作を、その細部までじっくりと眺めていた。

注ぎ終わると、スッと静かにカップをアデルの前に差し出す。
薄茶色の瞳が、優しく微笑んでいた。

「どうぞ。」

その顔と言葉に押され、彼は思わず差し出された紅茶をゆっくりと手に取っていた。
持ち上げれば、中の紅色は光の加減でキラキラと輝き、揺れる水面は柔らかな波を描く。
カップに口をつけて軽く手前に傾けると、まだ熱の冷め切らない熱い液体が舌の上にじんわりと広がった。
その味に、アデルはまた驚いて。ごくりと、喉の奥へと通せば、まだ舌先には紅茶の強い味が残っていた。緩やかな動作でカップをソーサーの上に置く。
目の前には、にこにこ顔のリリス。

自分には特別な力など何もないと言っていたが、アデルにはその紅茶の味が、まるで魔法でも使ったかのように特別なものに思えた。
彼女の笑顔と手元の紅茶を見比べて、彼は何か大きな確信を得る。
まだ、此処を離れるわけにはいかない。諦めるのは、まだ早い。


(彼女が何も話してくれないのなら、この目で真実を見極めるまでだ。)


カップの中のアッサムティーが、目の前の少女の瞳のようにキラキラと波打つ。
芳醇な香りがアデルの喉の奥にまで届き、それはとても、懐かしい味がした。


To be continued....